私が少年だった頃
下北沢の祖父母(朝鮮半島東北地方の吉州に住んでいた父方の家族は朝鮮戦争の際に全て消息不明になったので私の場合祖父母と言えば母方である)は板門店と言う焼肉屋を切り盛りしていた。
住み込みの板さんや地方から上がってきた日本の若いアルバイト達にヨン少年はよく可愛がってもらったものである。
松本さんもその中の一人で、鳥取から役者を目指して上京して当時は俳優の志村喬の付き人をしていた。
焼肉板門店は祖父母とチャグンイモ(一番小さい叔母さん)と板さんとアルバイト達がまるで家族のよに日々の生活を営んでおりまるで「前略おふくろ様」のミニチュア版のようなそんな雰囲気だった。
親戚の少ない私達の身内は私の運動会になると稼ぎ時の日曜日にもかかわらずワザワザ店を休んで祖父母やイモはもちろん板さんやアルバイトまで連れて世田谷の下北沢からはるばる千葉県の新検見川にある千葉朝鮮初中級学校までヨン少年とその妹の応援に駆けつけたのだ。
当時1970年代初め頃は東京駅から直通の快速もなく、中央線の快速で御茶ノ水まで行き黄色い総武線各駅停車に乗り換え新検見川まで行くという行程で東京と千葉と言えど遠かったのだ。
私の祖母は総武線に乗るたびに目撃するワンカップ大関を飲みながら雪印の6Pチーズをつまんでいるニッカポッカを着たおじさん達を見るのを本当に嫌がっていたにも関わらず毎年運動会に来た。どれだけ千葉の朝鮮学校の運動会が我々一族郎党にとっての大イベントだったか想像できるであろう、ちなみに現在内房線、外房線と呼ばれている千葉県の在来線を当時は房総西線、房総東線と呼んでいたのだ、売店の冷凍ミカンが名物。
板門店のスタッフ達は私を「え〜ちゃん」と呼んでいた、
競技で私が参加する度に「え〜ちゃん〜ガンバレ‼」と言われるのがとてもイヤだった、周りの友達に「え〜ちゃん빨리가라」とか言われるのが本当にイヤだった。
でも、お昼の時間にみんなで賑やかに板門店から準備した弁当を広げて食べるのはとても楽しかったし、となりの家族が板門店のスタッフ達にビールを勧めながら「朝鮮学校の運動会どう?」とか言いながら「鳥取に朝鮮学校あったかなあ?」とか「うちの田舎の札幌には大きな朝鮮学校がありますよ」とか和気あいあいとした楽しい思い出は今でも天然色で脳裏に焼き付いている。
5学年の時か6学年の時か中1の時だったか定かではないが松本さんは私を東京のある撮影所に連れて行ってくれた。
撮影所にある楽屋に入ると見覚えのあるおじさんが本番の準備をしていた。「こんにちは」と挨拶をするとニコニコしながら「おじさんの事知ってるかい?」と聞くので「はい、「どっこい大作」でいつも見ていました」というと
「ほ〜そうかい、おじさんの事知っているかい、」と、とても嬉しそうだった。
その時はまさか目の前にいるこのおじさんが黒澤映画の主役級で日本を代表する大俳優とはつゆほども知らなかった。
つづく