今で言う内房の市原市姉ヶ崎で過ごしたワケなんです。
当時の姉ヶ崎と言えば(地元民は姉崎と呼んでいた)辺り一面田んぼ、ザリガニや鮒など取り放題、ちょっと行けば姉崎海岸、裏山に行けば昆虫取り放題!みたいな典型的な田舎なワケで、
地元住民は語尾に必ず「だっぺ」「だべ」、
或いは「そうだよ」を「そうだでんよ」、「行くよ」を「行くでんよ」、
ジャンケンポンは「チッケッタ」と今では想像もつかないくらいバリバリの房州弁だったワケで、
「日本列島改造論」を推進する田中内閣によって姉崎の田んぼがどんどん埋め立てられて行くそんな時代に育ったワケなんです。
そして夏休みになるとうちのオモニは東京の下北沢にあるハンメの家に私と妹を飛ばしたワケなんです。
今でこそ「内房線」「外房線」と呼ぶローカル線も当時は「房総西線」「房総東線」と呼び、直通の快速東京行きも無く、房総西線で千葉まで行きそこで全身黄色の各駅停車の総武線で御茶ノ水まで行きそこでようやく全身オレンジの中央線快速に乗り換えて新宿まで行くという正に苦難の行軍をしたワケなんです、代々木で全身緑の山の手線を見た時の感動と言ったらありません、あともう少しで新宿!みたいな、新宿にさえ着けば後は小田急線の急行で次の駅(当時の小田急線は黄色いボディにブルーのライン、急行は代々木上原なんてブッチ通過してましたから)当時、千葉から東京は本当に遠かったワケなんです。
8月になるとハンメの地元の東京第8初級学校で「パリロ(815)納涼会」や「パリロパダモイム(815海大会)」が開かれ、よくイモ(叔母さん)に連れて行かれたワケなんです。
当時千葉から上京してきた私は「パリロ」で会う東京第8の同年代の子供達を目の当たりにして驚愕したものでした。
まず、言葉が綺麗‼️
チェーパル(第8)の同年代の女子は自分の事を「チョがね」と言うではありませんか?!
千葉のウリハッキョでは「ネーが」が基本形なのに‼️
「私」という意味の「ネ」の丁寧語の「チョ」という言葉を使うチェーパルの女子ってお嬢様かよ?!
パリロの夏の日、マジ眩しかった、
さらにチェーパルの女子は人に依頼するときに「イゴ ヘージュ?」(これしてくれる❤️)
ってどんだけ乙女チックで可愛らしいウリマルなんだよ‼️
語尾が「ジュ❤️」って、
惚れてまうやろ‼️
もうね、ヨン少年の胸はキュンキュンしちゃうワケなんです、
千葉チョジュンの女子は「ヘージュラ!」(これして!)
「ヘージュラ」ってジュラシックパークじゃねんだよ!正に肉食!野生!みたいな、
チェーパルの女子は草原のインパラとかスプリングボックスみたいなしなやか〜な感じなワケで、
しかも鼻垂らしてる子誰もいねーし‼️
今でこそ洗練された大人の女性の様に魅力的に振る舞ってるPっソンやRジョンヒも当時は千葉で鼻垂らしてましたから‼️
246沿いの世田谷区太子堂に우뚝 솟은東京朝鮮第8初級学校は車で東に五分も行けば渋谷さらに青山、六本木、
西に五分も行けば三軒茶屋、下北沢、更には二子玉川と日本全国で1番トレンディなウリハッキョだったワケなんです。
시부세의 한복판
자랑높은 배움터
행복의노래소리
희망안고 울려가네
미래의역군으로
배워가는 우리학교
그이름도 빛내여라
도꾜조선제8학교
渋世に立つ誇らしい学び舎
幸せの歌声希望を載せて響く
未来の働き手として学ぶ我が母校
その名も輝け東京朝鮮第8学校
今では無くなってしまったチェーパル、
が、しかし、大阪に続き東京でも無償化裁判に勝てばチェーパルの復活も夢ではないワケなんです‼️
母さん、
あの時のチェーパルの女子達は今どこにいるんでしょうね?
今でも「ヘージュ❤️」とか「チョが」とか言っては周囲を魅了してるんでしょうねえ、、、