知ってるつもり?朝鮮学校、ウリハッキョ~その2 | ヨンさまブログ

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とある焼肉屋のおやじです。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、
みなさん、本当にごめんなさい、
もう二度と他人様のウォールにコメントはいたしませんから、
どうか許してくださいまし、
わたしのコメントでみなさんをイライラさせて本当にごめんなさい、
もう本当に自分がイヤ、自己嫌悪、
以前、かなり昔、若い頃、
わたしね、イライラの実をね、たしかに食べましたよ、
それ以来、わたしね、他人様をイライラさせる事に関してはね、
もうね天才的、レーザービーム的電光石火的にイライラさせちゃう、
もうね、イライラ界のイチローかな?ブルース・りーっていってもいい、

もうねわたし、固く固く決心しました、
金日成元帥が14歳の幼い頃、中国留学への道すがら、
アンノッカン(鴨緑江)を渡りながら、
「朝鮮が独立するまで二度と祖国には戻るものか」
と誓ったくらいの勢いで決心しました、
他人のウォールには一切コメントしない!と、

でもね、わたし以前、ニム・ウェールズという人の
「アリランの歌」というのを読んでびっくりしました、
1936年に金山という朝鮮革命家についての取材した本なのですが、

彼が
「1919年、朝鮮から逃げ出したあの秋の日、
わたしは朝鮮を憎悪し、泣き声が鬨(とき)の声に変わるまでは帰るまいと心に誓った」
ーニム・ウェールズ「アリランの歌」53P-

わたし、確信しました、
初代元帥の「学びの千里の道」のあまりにも有名なこの言葉、
「金日成元帥の幼い頃」の作成者は絶対この本を読んだに違いない、
そして引用したのだと確信しました、
だって、その後にあの有名な「ナモドゥ会議」なんかも詳細に描写されているし、

焼肉を愛するみなさんお元気でしょうか?
下北沢焼肉JUNのヨン様です、
わたし、ストロベリーちゃんからチョコもらいました、
「義理チョコどーも」とわたし、すると
「本命チョコやで、、、」とぼそっとストロベリーちゃん、
あれ?こ、これって、愛情表現?もしかして、
お、おれ、愛されちゃってる?
愛されちゃってルー!!!!!!!!
今まで、愛を知らずに生きてきた私、
ついに真実の愛を知る、

ああ~また前置きが長くなりすぎー!
ポンスギさんごめんなさい、、、
イライラしてるでしょ、、、

、、、、、、、

朝鮮学校の歴史的変遷(超はしょってます)

・朝鮮学校の歴史は戦後ではなく殖民地時代にさかのぼる、
民族教育が認められていなかった内地では
京都の東九条、西陣、田中などの朝鮮人集住地に夜学や書堂が運営されたのが源流である。
それすら1935年頃から「民族的色彩濃厚」と警察の取締められ、
以後現在まで一貫して弾圧の対象となる。
朝鮮総連の歴史よりも朝鮮学校の歴史は長いのだ。

・1953年には京都朝鮮学園が京都府知事から認可を受け、
これが全国初の朝鮮学園認可である。
1945年10月に結成された在日朝鮮人連盟が組織される以前から
学校を建てるのも、維持するのも、修繕するのもすべて地域の同胞が自主的に自前で行った。

・1948年1月24日文部省の「朝鮮人学校の取り扱いについて」の通達により、
大阪、兵庫朝鮮人学校の閉鎖措置が強行され阪神教育闘争にまで発展する。

・1949年には軍政当局の意向により1950年3月までにほとんどの朝鮮人学校が閉鎖される。

・しかし、それで朝鮮学校が根絶やしになる事はなかった。
全国各地で公立学校の中に民族学級を設置したり、制度外で自主学校として再建されたりさまざまな形で存続する事になった。
その結果1954年により特別学級・抽出学級のケイタイが認められこれが公立学校での「民族学級」のはじまりである。

・1955年に朝鮮総連が結成され「朝鮮民主主義人民共和国の周りに再結集」させる事を中核的な綱領に掲げ「母国の言葉と文字で民主民族教育を実施」する事を明文化し朝鮮学校建設を進めていく。

・1957年、当時はといえば在日朝鮮人は露骨な差別と貧困の中に暮らしている状況であった、
そこへ朝鮮戦争停戦後間もない北朝鮮から教育援助費が送される。
この「送金」は「祖国」とそれを率いる金日成将軍という指導者の存在を朝鮮学校関係者に強く刻印する契機になった。
一方の祖国、9割以上の在日の出身地である大韓民国は
朝鮮学校の民族教育に一切興味を示さなかった、というより無視。

・私自身は個人崇拝や政権を批判してはならない体制にはハッキリくっきり反対、だけど、
当時の状況を考えると、
当時、朝鮮戦争後、焼け野原になった祖国を
食べるものも無い中、
やせ細ったウェストのベルトを思いっきり締めあげながらも
身を粉にしながら復旧建設を急ぐ苦しい中でも、
在日の民族教育の為に「送金」してくれた「将軍様」に慈しみと恩を深く感じるのは致し方ないのではと思わずにはいられない。

・教科書の歴史的変遷

第Ⅰ期=1955~1973年
第Ⅱ期=1974~1992年
第Ⅲ期=1993~現在

「金日成元帥の幼い頃」に関する強化が初級部で導入されたのは第Ⅱ期の事である。
ピンポイントで私の在籍時代。暗記するの大変だった。

第Ⅰ期には北朝鮮の教科書を使用する場合もあったが当時の本国の状況も反映し、
金日成主義が前面に掲げられていなかった。

一方で第Ⅲ期には金日成らに関する科目が世紀の教育課程から姿を消した。
1970年以降の在日社会は一世人口が減少した事、
帰国事業が停滞した事、
帰国志向よりも在日志向が強まった事、
朝鮮韓国籍者と日本国籍者との婚姻が増えた結果、ダブルの子も増えアイデンテイテイの多様化が進んだ事、
北朝鮮の経済成長が鈍化した事、
かつての圧倒的な存在感に比べて在日朝鮮人にとっての北朝鮮という祖国の魅力が後退した事、
朝鮮学校の在校生が徐々に減少した事、
等が1980年代以降の教育価格の要因だったと思われる。

1990年代はカリキュラムの改革のみならず、
それまで排除されていた日本社会に朝鮮学校が参入していくような変化が見られた。
1992年に全国高等学校野球連盟
1993年に全国高等学校体育連盟、
1994年に全国兆等学校体育連盟への加盟が認められた。

1994年には朝鮮学校生徒に対するJR通学定期券の学割が日本の生徒同様に認められるようになった。
(これは個人的に一番の驚き、知らなかったし、なんでそこまで差別したん?みたいな)

1999年には朝鮮学校生徒に大学入学資格検定の受験資格が付与された。
2003年には大学入学資格制度が緩和され、多くの外国人学校の国立大学受験資格が認められるようになった、が、
が、日本社会の反北朝鮮感情の煽りをくらい、学校単位での受験資格はみとめられなかった。
とはいえ個別審査によって受験資格が認められている。

このような日本社会の反北朝鮮感情は2010年に始まったいわゆる「高校無償化」制度にも持ち込まれ、各種学校たる外国人学校の中では朝鮮学校のみが不当に排除された。日本政府のこうした態度は地方公共団体にも悪影響を及ぼし、長年支給されていた補助金の停止、凍結、減額などの措置が相次いでいる。

かくして朝鮮学校自体は在日朝鮮人社会の現状に合わせて改革を進め、寄り開かれたものになってきているのに、日本社会の方では朝鮮学校への偏見がむしろ強まっている。

と、私が言っているのではなくて、専門家の板垣竜太さんがそう言っております、
そして私はその意見に同意するわけなんです。

意見書の文中に以下のような事が記されています。

・・・このように日本社会から朝鮮学校が激しくバッシングされている時でさえ、
朝鮮学校の教員たちは生徒達に、
「ほとんどの日本の人々は善良で友好的、だから私たち在日は日本人と仲良くし共により良い社会を築くために手を取り合わなくてはなりません」

わたしね、この部分をストロベリーちゃんに声を出して読んであげた、
おもわず込み上げる物があって読み上げる声が上ずっちゃったわけなんです、
朝鮮学校教師生活10年余、
女だてらに教頭先生にまで登りつめたキャリアを持つストロベリーちゃん、
阪神大震災時、明石朝鮮初級学校で在日、日本人の区別無く炊き出しをしたストロベリーちゃんが泣いていた。
いったいどこに「反日」教育があるのか?


今では懐かしいチマチョゴリの制服、
あ、現役時代のピチピチだった頃のストロベリーちゃん、(左)
なんとういういしい、、、、

成熟しきって熟れすぎたストロベリーちゃんに会いたい方は
焼肉JUNにお越しくださいませ、

わ、わたしね、じ、実を言うと、
女優の広田レオナさんからバレンタイチョコもらっちゃったんです、
俳優の吹越満さん(冷たい熱帯魚の主演俳優)の奥さん、
ど、どうしましょ!?
文芸春秋とか女性自身とか東スポとかにスキャンダル報道されたら、
モザイク&音声を変えられ沈痛な面持ちでインタビューに答えるストロベリーちゃん、
コートで顔を隠して車に乗り込む私、
あれ?それだと容疑者じゃん、、、