板門店 | ヨンさまブログ

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とある焼肉屋のおやじです。

 板門店、


よく耳にするよね、焼肉屋さんとか、朝鮮半島の南北赤十字会談が板門店で開かれるとか。


僕にとって板門店といったら下北沢にあったハンメ(祖母)の店。


うちの父は終戦後に単身、密航で日本に来たので身寄りが無く、


祖父母の家といえば母親の実家でした。


夏休み、冬休みになると母の手に引かれて妹とハンメの家に遊びに行く、


イモ(叔母)とサンチュン(叔父)、ハラボジ(祖父)、そしてハンメがいて、


僕たち兄妹はそれは可愛がられた、


ハンメの口癖、僕の頬を撫でながら毎回「アイゴー、こんなに痩せちゃって!可哀相に!」


そしてすぐ焼肉!


そんなハンメ、苦労も多かったみたいで、7人の子供を生んで無事成人したのは5人、


そのうちの長女と三女は帰国事業で北朝鮮に帰り、


朝鮮半島の統一を祈願して付けた「板門店」なのに、皮肉にも離散家族となる。


自家製のマッコリを売っていたため、度々区役所から手入れが、


サンチュンいわく「全部出来上がった頃をみはからってくるんだよ、あいつら!


そして全部没収されるんだよ、もう、それが悔しくて悔しくて!」


そしてその都度、役所の人間と掴み合いになり留置場にいれられたそうな、


その度に近所のお巡りさんが「みっちゃん(叔父の名前が光夫だから)、どんなことがあっても


手を出したら負けだぞ、オモニが心配してるから早く帰りなさい。」と、出してくれたそうです。


そのお巡りさん、給料日には決まって「板門店」で一杯やったそうで、


「オモニ!例のあれ、あれちょうだい!」といってはマッコリを楽しんだそうです。


おおらかな昭和の断片。


ハンメは食事のとき、子供たちのため、キムチ以外は一切手を付けなかったと、


母から聞いたものでした。


読み書きが出来ず、勤勉さと勘だけを頼りに家族を養ったハンメが


天国に召されたのは13年前でした。


、、、、


そんな幼少時代の記憶からか、物心がついてニュースで「板門店で南北会談」、


なんて聞くと、南北の偉い人たちとアメリカの軍人が焼肉屋さんに集まって、


話し合いが済んだ後は、焼肉の網をつつきながらカルビを頬張る様子が


頭の中に浮かびました、そして、なんでいつも焼肉屋に集まるのか不思議でした。



実はこの「板門店」、


38度戦付近で膠着状態になった朝鮮戦争末期、停戦交渉のための場所を模索していたところ、


「ノルムンリ」、漢字で「板門里」に大きな民家があり、そこを会談場所に決定した際に


その近くのタバコ屋(一説には食堂)を目印として、中国人民解放軍が


「板門店」と呼んだのが、そのまま現在に至ると言われている。


これ、意外と知られてないんだよね、エッヘン!!


これ知ってたら、かなりのコリア通だよ!



焼肉ぱんが向島スカイツリー店のブログ

ともあれ当時の写真、昨日、物置を整理してたら出てきた!


クンイモ(大きい叔母、左)とうちの母親が板門店の前でのスナップ。


約65年前の世田谷区北沢2丁目!!


今なら小田急線と井の頭線がとおり、本多劇場があって南口商店街があって、、、


そんな古きよき昭和の時代の面影と、現代に躍動する東京スカイツリーを望む向島!


そこのあなた、スカイツリーの後は向島で焼肉ネ!


スカイツリーは高いけどパンガの焼肉安いから!!



最近生意気なうちの娘、昔は可愛かった!


5歳のとき上野動物園に連れて行った帰り


「今度は下の動物園につれていってね!」



おすし屋さんで、


娘「イクラください!」


板さん「ハイヨ!いくつ?」


娘「5歳!」


子育ての一番甘くておいしい部分でした、、、