「学校は個性を潰す場所だから」

南無阿弥陀仏。

強い言葉です。

でもな。

強い言葉って、だいたい何かを隠している。

学校は悪。家庭は安全。個性は正義。

こう決めると、楽なんです。

悩まなくていい。

本当は、学校にも問題はある。

合わない子もいる。

壊れるくらいなら、行かなくていい時もある。

それは本当です。


でも、だからといって、学校そのものを悪者にして、子どもを家に閉じ込める。

それは違う。

守っているんじゃない。

自分の理想を着せているだけです。

「この子には才能がある」

「絵で生きていける」

「周りに合わせなくていい」

きれいです。

でも、それを子ども本人の声として、親が語り始めたら危ない。

子どもの個性じゃない。

親の物語です。

個性って、好き勝手にすることじゃない。

ぶつかる。折れる。我慢する。また立つ。

その中で、それでも残ってしまうものです。


砂場で遊んだあとの服みたいに、払っても払っても、まだ少し残る砂。

それが個性です。

最初から額縁に入れて、「これがこの子らしさです」と飾るものじゃない。

それをやると、子どもは逃げ場を失う。

学校に行かない自由のはずが、「学校に行かない子であること」を演じさせられる。

これはきつい。

しかもSNSに出る。

「大丈夫」

「自由に生きている」

「学校なんて必要ない」

誰の言葉ですか。

子どもの言葉に見えて、

親の願望が混ざっていないか。

そこを見ないと危ない。


自分も同じです。

相手のためと言いながら、自分の正しさを守る。

「あなたの個性のため」

「あなたの幸せのため」

そう言いながら、本当は自分が不安なだけ。

怖いだけです。

学校で傷つくのが怖い。

普通に飲まれるのが怖い。

自分の子育てを否定されるのが怖い。

だから、先に世界を否定する。


わかっていても、やめられんのです。

親は弱い。

子どもの苦しみを見ると、何かを敵にしたくなる。

学校。社会。先生。普通。

敵があると、少し安心する。

でも、敵を作っても、

子どもは育たない。


だからこそ。

必要なのは、学校に行かせることでも、行かせないことでもない。

その子が今、何を感じているのかを、親の物語抜きで見ることです。

如来は、学校に行く子だけを見ていない。

行けない子も。

行かせたくない親も。

心配で口を出したくなる祖母も。

黙ってしまう父も。

みんな、迷いの中にいる。

その迷いごと、見捨てない。


南無阿弥陀仏。