「私にも息子にも何も連絡はないですよ」
南無阿弥陀仏。
これ、お金の話に見える。
でも本当は、お金じゃない。
けじめの話です。
相続というと、財産、遺言、遺留分、法定相続人。
急に言葉が硬くなる。
でも、その奥にあるのは、もっと生々しい。
会えなかった子。言えなかった父。触れられなかった過去。そして、棚上げされたまま残った感情です。
終活。
いい言葉です。
墓を整える。物を減らす。
葬儀を決める。最期を考える。
でもな。本当に片づけにくいものほど、箱に入らない。
昔の家族。別れた相手。置いてきた子ども。言わなかった謝罪。
これは、書斎を整理しても出てこない。
いや、
出てこないようにしているだけです。
見たくないものは、人間、本当に上手にしまう。
押し入れの奥に入れた古い紙袋みたいに。
中身は覚えている。
でも開けない。
開けたら、当時の匂いまで戻ってくるから。
「もう関係ない」
そう言いたくなる。
言う側も。
言われる側も。
でも、血の縁は、感情よりしつこい。
法律よりも、もっとしつこい。
忘れたことにしても、死後に戻ってくる。
これが怖い。
生きている間に向き合わなかったものは、残された者の手に落ちる。
相続は、財産の分配じゃない。
未処理の人生の請求書です。
ここがえぐい。
本人はもういない。
だから、言い訳もできない。
謝ることもできない。
抱きしめることもできない。
残された者だけが、沈黙を読まされる。
自分も同じです。
面倒な関係を、後で考えようとする。
いま言うと揉める。
いま触れると傷つく。
いま向き合うと苦しい。
だから、そっと置く。
でも、置いたものは消えない。
怖いだけです。
失いたくないだけです。
今の平穏を。
今の家族を。
今の自分の顔を。
だから、過去をなかったことにする。
わかっていても、やめられんのです。
人間は、愛した人を守るために、別の誰かを沈黙させることがある。
そして、その沈黙を、「仕方なかった」と呼ぶ。
でも、仕方なかったで済まされた側にも、人生がある。
だからこそ。
終活とは、死ぬ準備だけではない。
生きているうちに、残してしまう痛みを、少しでも見ておくことです。
きれいに終わらなくていい。
全部解決しなくていい。
ただ、見なかったことにしない。
それだけでも、残される人の苦しみは変わる。
如来は、立派に片づいた人生だけを見ていない。
逃げた人生も。
言えなかった人生も。
捨てたつもりで捨てきれなかった縁も。
その全部を照らしている。
だから、私たちはせめて、見たくない縁から逃げた自分を、見つめるしかない。
南無阿弥陀仏。

