戦争が終わった途端、

「私は最初から反対だった」

と言い出す者がいる。

南無阿弥陀仏。

いやぁ、これは戦争に限った話ではありません。

会社が倒産すれば、

「あそこは危ないと思っていた」

事件が起きれば、

「あの人はいつか何かやると思っていた」

失敗した者を見れば、

「だから言っただろう」

結果が出た後になると、凡夫の目は、急によく見えるのであります。

だが、始まる前には見えていない。

いや、見えていても、周りが同じ方向へ走り出せば、なかなか一人では止まれない。

戦時中、

「もっと供出せよ」

「文句を言うな」

「日本人なら耐えろ」

そう叫んだ者たちがいた。

苦しかったのでしょうな。

怖かったのでしょう。

負ければ、国も家族も自分も、すべて失うと思っていた。

だから、耐えることを正義にした。

隣の者にも、同じ覚悟を求めた。

自分だけが我慢するのは苦しい。

みんなも我慢していると思えば、少し耐えられる。

そこへ、

指輪をした者がいる。

着飾った者がいる。

腹が立つ。

戦争の敵は、いつの間にか海の向こうだけではなくなる。

隣人になる。

「あいつは覚悟が足りない」

「あいつだけ楽をしている」

そうして、苦しんでいる者同士が、互いを監視し始める。

これは昔の愚かな者たちの話ではない。

私も同じである。

暑い日に、自分だけ忙しく働いている横で、涼しい顔をしている者を見る。

それだけで、少し腹が立つ。

自分が我慢している時には、他人にも我慢してほしくなる。

苦しみは、時に慈悲ではなく、取り締まりを生むのであります。

そして、もっと恐ろしいことがある。

負けた後です。

「あんな戦争は間違っていた」

そう言うことはできる。

事実、間違っていたこともあるでしょう。

だが、そこで自分だけを安全な場所へ移してしまう。

軍部が悪かった。

政治家が悪かった。

新聞が悪かった。

国民は騙されただけだった。

そう言えば、自分の手は汚れない。

だが、本当にそれだけでしょうか。

空気を作るのは、遠くにいる誰かだけではない。

黙って従う私。

熱狂する私。

異論を笑う私。

後から知らぬ顔をする私。

その一人一人が、時代の空気を少しずつ作ってしまう。

わかっておる。

だが、やめられん。

流れの中にいる時、流れそのものを見ることは難しい。

川に流されながら、川の形を眺めるようなものです。

岸に上がってからなら、

「あそこが急流だった」

「ここで曲がるべきだった」

いくらでも言える。

だが、水の中では必死なのであります。

だからこそ、過去の者を笑ってはいけない。

同時に、美化してもいけない。

彼らも凡夫だった。

そして、私も凡夫である。

恐れれば群れる。

追い詰められれば誰かを責める。

終われば、自分は違ったことにしたくなる。

その業から、私はそう簡単には逃げられない。

だから、歴史を見るのでしょうな。

昔の者を裁くためではない。

同じことをする私を、少しでも早く見つけるためです。

南無阿弥陀仏。

念仏は、正しかった者の勝利宣言ではない。

間違える私。

流される私。

後になって都合よく記憶を書き換える私。

その私を、なお見捨てぬ呼び声であります。

時代が狂ったのではない。

時代の中には、いつも私がいる。

そこから逃げぬために、

南無阿弥陀仏。