本を読ませるために、本を壊す。

いやぁ。

妙な時代になったものですな。

南無阿弥陀仏。

古本が、大量に買われているという。

哲学。

歴史。

医学。

法律。

江戸の暮らし。

昔の政治。

売れ筋でもない専門書まで、ごっそり動いている。

生成AIの学習に使うためではないか、とも言われているそうです。

紙の本を集める。

裁断する。

一枚ずつ読み取り、文字をデータにする。

そして、役目を終えた本は捨てる。

もちろん、何のために買われているのか、すべて分かっているわけではありません。

けれど、もし本当にそうなら、ずいぶん不思議な光景です。

人間の知恵を残すために、人間の知恵が書かれた本を壊す。

知識を増やすために、知識を宿していたものを捨てる。

なんだか、料理を覚えるために、母親の古いレシピ帳を全部読み取り、読み終えたら燃やしてしまうような話です。

中身は残った。

だから、同じではないか。

そう言われれば、理屈は通る。

しかし、本というものは、中身だけなのでしょうか。

誰かが線を引いた跡。

ページの角を折った跡。

古い紙の匂い。

表紙の日焼け。

何十年も前に、誰かがその本を必要として、金を払い、家へ持ち帰った。

そして、いつか手放した。

古本には、内容とは別の時間まで挟まっている。

それを「情報」としてだけ見れば、裁断することにためらいはなくなるのでしょう。

ここが、少し怖い。

役に立つ部分だけ取り出す。

効率よく吸い上げる。

残りは要らない。

これは、本だけの話ではありません。

私たちは、ずいぶん前からやっている。

この人は、仕事ができる。

この人は、話が面白い。

この人は、役に立つ。

この人からは、もう得るものがない。

そうやって、相手から必要なものを取り出して、値打ちを決める。

そして、使えなくなれば少しずつ遠ざける。

いやぁ。

本を裁断する機械を、私は責められませんな。

私の目も、よく似た刃物を持っている。

私も同じである。

誰かの話を聞きながら、自分に必要なところだけ拾う。

長い話なら、早く結論を言ってくれと思う。

本を読んでも、要点だけ知りたくなる。

映画も、倍速で見たくなる。

便利になればなるほど、

「途中」

が邪魔になる。

凡夫性というものは、効率という立派な服を着て、ずいぶん上手に欲を隠すのでしょうな。

もっと知りたい。

もっと早く。

もっと大量に。

分かっておる。

だが、やめられん。

知識が増えることは、悪いことではない。

AIが多くの本から学び、誰かの役に立つこともあるのでしょう。

だから、

AIが悪い。

本を壊すな。

と叫んで終わる話でもない。

むしろ、問われるのはこちらです。

知るということと、大切にするということは、同じなのか。

南無阿弥陀仏。

どれほど多くの言葉を取り込んでも、目の前の一人を役に立つかどうかでしか見られないなら、私たちは本当に賢くなったのでしょうか。

阿弥陀仏は、私から役に立つ部分だけを抜き取ってはくださらん。

愚かさも。

無駄も。

遠回りも。

捨てたくなるような私まで、丸ごと見ておられる。

だから念仏の前では、私もまた、誰かを「使える情報」にしていなかったかと問われるのであります。

南無阿弥陀仏。