傲慢だった | 元jw3世の部屋

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jw3世が「世」に出て考えるいろいろなこと。

センター試験まで残り120日を切りました。バイトや集会・家族崇拝があるのでずっと勉強するというわけにもいきませんが、少しずつ手ごたえを感じています。




こうして受験勉強をしていると、本当に自分は何も知らない若造で、勉学においても生活の中でも学ぶべきことがたくさんあるな、と感じさせられます。

JW
にどっぷりと浸かっていたころにはこんな感情になることはあまりありませんでした。会衆で「期待の星」だとかおだてられ、長老や親の勧めのままに補助開拓や割り当て・朗読をこなして調子に乗っていた中学時代は、学校の友人の多くがバカに見えていました。

奉仕に出ても、根拠のない内容を根拠のない自信を持って奉仕をしていたのだと思うととても恥ずかしく思います。

 



受験を決めてから、(JW内の世間体的に)不活発にはならないように毎月数軒、再訪問・雑誌経路をしています。(といっても、野外奉仕に引きずりだされることもありますが(笑))

普通、再訪問は紹介を考えて雑誌を渡して、引く聖句と次の土台となる質問を残してそのうち研究生にするぞ!なんて意気込みをもってするものですし、以前の僕もそうでした。

でも最近は、ただ世間話をすることを目標としています。



数日前、半年ほどお会いできていなかった再訪問の方に会ってきました。

久々に会えたことに喜んでくださいました。

雑誌を5秒で紹介して渡して、それからしばらく雑談をしていました。

その話の中で「大学受験しようと思ってるんですよ~」と言うとその方はとても応援してくださいました。

「若いときはとにかくチャレンジするといいよ」ということや、「いろんな人とコミュニケーションすることで、社会に育てられていくよ」とアドバイスをいただきました。




「社会に育てられる」という感覚を今まで持ったことはありませんでした。

だって、この世は悪だって教えられてきました。

社会に貢献すること=サタンの世に貢献することだって刷り込まれてきました。

でも、全然違うんです。

「この世の人」は、たしかに悪い人もいるけれど多くの人は日々を一生懸命生きてて、家族のために働いてて、人生を楽しむために時には遊んでるんですよね。

普段は意識しないけれど、誰かの仕事の上に自分の生活があります。

誰かの善意で助けられる人もいるし、誰かの一言で今日の僕のように何か得ることだってあったりするんですよね。

そうやって人間として成長していくんだと思います。

だから、社会経験もないのに宣教に出て「聖書を教える」なんてマネは僕にはできない。それは家の人にすごく失礼だと思います。

 


よい大学には努力家が多いので学問以外にも学べることが多い、といったことを何かのブログで読んだ覚えがあります。

「真理を知っている」などという傲慢な気持ちではなく、謙虚に学び続け、いろいろな視点から物事を判断できるようになりたいです。

聖書は実際に何を教えているか、人は死んだらどうなるのか、宗教とは何か・・・。

そんな難しい問題に対して結論を出すのはもっと人生経験を積んだ後でもいいと思います。

ただ、今は自分の未来の可能性を少しでも広げるため、自分の能力の限界を試すために受験勉強をするだけです。



もっとがんばらないと国立には届かないので、問題集とか単語帳とかとにらめっこしていたのですが、どうしても「社会に育てられる」という言葉に考えさせられたことをまとめておきたくなって書きました。



あ、唐突にどうでもいいこと書きます。

彼女欲しいです。

以上、今日19歳になった童貞フリーター風浪人生でした。

 


次に書くときは、「第一志望合格したぜ、ひゃっはあああああああ」という記事が書けるようにがんばります。