まずは松本城へ。まわりをとり囲む桜が満開! ここは今が春爛漫です。記念撮影をとってから、さて入ります。内堀の橋は、人が2人やっとすれ違えるくらいの幅でした。大勢で攻めることができないようとの配慮でしょうか。

門をくぐり、敷地内へ。壁が真っ黒。「烏城」と呼ばれているそうです。そして天守閣の土台の石は隙間だらけ。なんかてきとうに空いているところに合いそうな石を入れてみました的なアバウトさに不安を感じつつ、でも400年も建ち続けているんだからと自分に言いきかせます。

城っていうのは白亜の御殿じゃないと思い知ったのは窓。二重の格子になっており、格子をそろえれば外が見え、ずらせば外界を遮断することができます。敵が鉄砲をむけても、中の人が大丈夫なようになんですね。

弓矢や鉄砲用の、外が狭い小窓もありました。
 

TVで高山のお祭りを見た母が、
「さくらっ(仮名)、高山に行くわよっ」
鶴の一声。職場を休んで2泊3日の旅をしてまいりました。

朝の3時半起床。4時半に家を出、4時55分に始発の電車に。
恐ろしいことに、ただでさえ早朝で冷えこんでいるのに、電車には冷房が入っていました。車掌がスイッチを押しまちがえてるとしか思えない。おかげで私は肩こりが悪化、母は花粉症が治ったばかりだというのに風邪をひき、旅行中ずっと鼻をかんでいました。

新宿からツアー客と合流、特急のぞみで松本めざし出発。(ちなみにこちらは暖房がきいていました)
電車から流れる景色を見ていて思ったこと……タイムマシンに乗ったみたい。
関東では桜は葉桜、今はつづじが咲こうかというところ。なのに、1時間も走っていると、桜があわい色で咲きはじめ、水仙も木蓮もこぶしも花開き、梅まで満開でした。
なんだか時間を逆行して、春をもう一度体験し直しているようでした。
 

(4月12日付、毎朝新聞朝刊より)
いま、日本ではサラリーマンの体調の悪化が問題になっている。毎日何時間もデスクワークをこなし、座りっぱなしでいるため、内蔵を圧迫。じつに90%サラリーマンやOLが、便秘や腰痛、痔など、なにかしらの体内疾患があるという。
デスクワークで頭と腕は動いているが、腰から下はただ椅子に座っているだけ。この問題を少しでも解決できないだろうかと、東京に本社のある大手コンピュータメーカー「福武苦株式会社」が、あたらしい試みをはじめた。
この椅子は、丈の低いエアロバイクである。研究開発者は、「この無駄な部分を活用しようと着目しました」と語る。とい社員は、パソコンで仕事をしながら、椅子のペダルをこぐ。仕事をしながら運動し、一石二鳥をはかろうというねらい。
 

先日、板谷波山展に行ってきました。伝統的な日本の器と、アール・ヌーヴォーの耽美さがミックスされた陶器が並んでいて、和洋折衷の美しさがありました。アール・ヌーヴォー的なのは前期で、後期の作品はデザインがより日本的なものになっていました。会場には百を超える陶器が展示され、見ごたえがありました。

会場の出口付近に、一枚の写真がありました。男性がろくろを回し、その手元を、波山が厳しい表情で見守っているものでした。ろくろ師の名は現田市松。波山が30代後半のとき、現田に出会います。それ以降、現田は波山の助手として終生をろくろを回し、波山はデザインに専念、自らの道を極めていったのでした。

板谷波山という名前の影に、50余年もの間もくもくとろくろを回し続けた人がいたのですね。そして二人三脚は1人では走れない。昭和38年、現田が事故で死去すると、後を追うかのように、波山もその年に亡くなりました。
 

全員が主人公。コーチも、選手たちも、親たちも……

時代は1970年代アメリカ。人種の壁は表向きはとりはらわれたものの、実際は断絶状態のまま。バージニア州の田舎町アレキサンドリアでも、人々は小ぜりあいをくり返していた。
白人と黒人の高校が統合され、フットボール・チームのヘッド・コーチに黒人(デンゼル・ワシントン)が就く。前からいた白人のコーチ(ウィル・パットン)は面白くない。当然選手たちもいがみ合う。
皆はヘッド・コーチの独裁者ぶりに反感をおぼえるが、いつしか彼の語るフェア精神に心を動かされていく。そしてそれは町の人々をも変えていくのだった……

実話の映画化。スポーツは本当に人と人とを結びつけるのだな、と感動しました。映画の中の語りには、努力して壁をとりはらった人のもつ誇りが感じられました。今でもこの町の人達はみんな仲がいいそうです。肌の色に関係なく。
 

(4月1日付、毎朝新聞朝刊より)
傘メーカーは、雹や災害などにそなえて、頑丈な傘を販売することを発表した。
それによると、傘をさしていたにもかかわらず、雹に当たって負傷・死亡した人の原因の100%が、「布が破れて、雹が体に当たったため」であるという。メーカー側は過去数年間にわたって、布の改良研究に力を注いでいた。
今回発売される「ヤブレンラ」は、それまで布だったところを超合金に替えたたことが注目される。金属には形状記憶機能がついているのでたたみやすくなっている。
実験の結果、成人の頭大の雹が落ちてきても、金属は破れなかった。しかし被験者は手首をねんざしたそうである。(これについてメーカー側は、「腕を鍛えるためのダンベル付き傘を開発中である」と言っている)
 

“釣った魚には餌をやらない”という言葉がありますね。恋人同士だった頃はやさしかった彼が、結婚を境に手のひらをかえしたように冷たくなったりして。ああいうの、女性の立場からすると「だまされた」ってことになります(笑)。男性のご意見は? え?「結婚してまでチヤホヤできるか。俺は一家の柱で、家ではくつろぎたいんだ」。……ナルホド。

「いや、僕はちがうよ」職場の上司Oさんが言いました。「僕は餌をどっさりあげる」
どういうことでしょう? 詳しく教えてください。
「だってさ、結婚前の段階って、魚に食い逃げされるってことがあるわけじゃない? それより結婚したら食い逃げはないし。餌をあげただけ、こっちにいろいろしてくれるもの。餌が少ないと離婚されちゃうよ」……ナルホド。

それはいい考えだ、と最近結婚したI君(チヤホヤしてない)にこの話をしたら。I君、苦笑しながら答えました。
「いや~、僕のほうが釣られたんですよ」
 

童謡を書くのが好きな娘だった。同じ趣味の年下の男性と、一緒に音楽などについて語りあった。楽しかった。なのに、一体どこで運命が狂ってしまったのだろう……?

正祐の、みすゞの結婚に反対する手紙がありました。結婚したみすゞから正祐へ送った手紙もありました。娘のしゃべった言葉を集めたメモがありました。死を予感させる詩がありました。

ままならぬ人生を歩いた女性の遺品の数々に、会場を訪れた人たちはくいいるように見つめていました。

出口付近に、手帳が3冊、並んでいました。512編の遺稿が書かれたそれは、みすゞが死ぬ前に正祐に託し、矢崎節夫氏が16年の歳月をかけて探し求めたものでした。深く心をゆさぶられました。「これがその……」。すでにボロボロになっている手帳は、保存のため、今期で展示をやめる予定だそうです。
皆さんの町に展示会が来たとき、ぜひこの手帳をご覧になってください。
 

3/15、横浜 高島屋にて

「金子みすゞの世界展」へ行ってきました。会場のガラス棚には、当時の雑誌や資料などが並んでいました。壁には彼女の代表的な詩と、それにまつわる場所や人物のパネルがかかげられ、一角には、彼女が働いていた書店を再現したセットもありました。私はゆっくりと会場をまわっていきました。

本人や家族の写真は、すでに雑誌などで目にしていましたが、生写真は初めてでした。昔の人々の息づかいを感じました。

セピアに退色した写真の中で、ここではないどこかを見つめている若いみすゞがいました。側には、そこで着ていた着物(と同柄)のはぎれがありました。縞の袖をはためかせながら歩くみすゞの姿を思いうかべ、ふと、彼女が今ここにいるような錯覚をおぼえました。
彼女はもう過去の作家ではなく、私に喜びや悲しみを語りかけてくる一人の女性でした。
 

みすゞの結婚に反対し、彼女が実姉だと知った正祐は家出。東京へ去りました。(「映画現代」編集部や、劇団若草に。「おつかいは自転車にのって」の作詞者です)

不幸な結婚だったようです。結婚後は、童謡を書くことを禁じられ、夫は遊蕩でほとんど家に帰らず、みすゞは病がちになりました。

26歳のとき、離婚が決まりました。が、それは娘を相手に渡すというのが条件でした。親権は男性のほうにあったのが昔です。子供をひきとりに来るという前日、みすゞは服毒自殺をしました。
時代が彼女を殺した、というのが後世の研究家の一致する意見です。

その後昭和57年に、児童文学者の矢崎節夫さんが、正祐氏が保管していた3冊の遺稿集を発見するまで、金子みすゞの名は約半世紀のあいだ忘れ去られていました。