自分に向き合うという作業 | 母体武道 合気道 無元塾

母体武道 合気道 無元塾

成田伝合気道で唱えられた母体武道をさらに洗練させて、武道のみならず、セラピー、ボディワーク、普段の立ち居振る舞いなどの根元となる普遍的なものをお伝えしております。

以前、瞑想の師匠から大体の人は自分に目を背けている、、と教えてもらったことがあります。


その時にやっていた瞑想はwho is inというもので、


その仏教発祥の公案禅とラマナ・マハリシのwho am i を組み合わせた瞑想は、


自分の中に何があるのかを問い続けるということで、


否が応でも自分の中の自分のに向き合わなくてはいけない状況を強制されるのです。


それは間違いなく思考の切り口で瞑想状態になっていく、つまりは左脳を疲れさせることで自然と右脳が活性してくるという手法なのだということなのです。


先週の記事の"ネドジュンさん"の動画の説明とリンクしていて、また、


左脳が脳出血で破壊されていくジルポルトテイラーさんの動画の説明の状態と感覚的に同様になるのです。






おそらく世にある瞑想の方法は、実は限りなく無限にあり、宗教や文化などによってさまざまな確立したノウハウがあり、プロセスや深さの違いはあれど、辿り着くエリアはだいたい同じで、


そして、自分に向き合うという作業もある意味そのさまざまな瞑想の側面的なものであり、そこを理解出来ると、とても効果のあることがわかってくるのです。


それでも尚、なぜ自分に向き合うということが瞑想的作業になるのかという、漠然とした疑問は拭い去ことは出来ないのです。


それは、


私という自分を、私自身がちゃんと正確に認識するということは、実は根本的に出来ないのではないか、、という考え方がベースなのですか、


実際、自分で自分の顔を見ることができないことと同じように、、


仮に鏡で自分を見たとしても、それはもう自分から切り離した他と同じで、客観的に見るという言葉に置き換えていることもできるのですが、そこに映るし自分は、もはや自分自身という感覚ではないのです。


つまり、私は他を認識するためのものでしかないという極端な考え方にも行き着くのです。


そういう私という自分に向き合うとは、実態のない私を見ることで、それに気づくことを恐れる勘違いした私にとって、とても嫌悪的な作業なのであり、答えの出ない問いのようなもので、


プロセスとしては、自分も他人も受け入れるというオープンマインドな心の事象は起こるのですが、


最終的には、思考が止む、、というところに辿り着くのです。


そこで成田先生が入身をいている時は気絶しているとおっしゃっていたことを思い出します。


最低限の私という機能を残しつつ、思考(分別)を止める、、こちらが他との区別をしていないのだから、それに反応している相手も思考が働きづらくなる、、


そして、その状態の中で相手に攻撃的な行為をする、、


それが中心帰納であり、入身であり、場合によっては合気という現象にもなる。


意識が遠のき、無意識が表面化し、その無意識がその時の最善の作業、処置をする、、、


成田先生は、そのことを"思わざる"ハタラキが発現しているといい、他力本願ともおっしゃってました。


自分の中の中心を象徴化して、そこに帰納するという意識的な作業を、自分に向き合うという嫌悪的な作業の互換作業とし、


そして、自動化システムとして、その作業が、日常的に、簡易的に行えるということが、この中心帰納のいいところで、


さらに、直ぐにそれを生活のベースに置くことの発想に行き着きますし、


そのことがいかに瞑想的な日々が送れるヒントとなるのです。


そして、それが合気道とどう繋がるのか、、それはここの合気道に触れてみれば直ぐにわかることなのです。


そして、残されたするべきことは、信じて、念願し続けることなのです。


もはや、宗教的ですらあるのですが、決して縛りはないのです。


多分、現在の武道界の中で、一番緩い団体でもあるのです。


それは全て自己責任ということなのです。



無元塾