さて、改めてこの成田先生の動画を見て感じること。
意識(心)の在り方なのだということがわかります。成田先生も、そういう説明をしてらっしゃいます。
まず、その説明を聞いて、普通受けたことのない方は、信じられないと思います。
それ当然だと思います。
でもやっていてわかることは、その意識(心)の在り方を表すのに、身体の使い方の精度が高いほど上手く表現できるということです。
つまり、心(意識)をないがしろにして、身体の精度を上げても、身体のことをおろそかにして、意識(心)だけを研ぎ澄ましても、武道的表現は上手くいかないのです。
とても身体能力が高くても、なかなか上手くいかないのはそういうことですし、
瞑想で悟ったとしても、身体の遣い方を知らなければ、武道的な表現はできないのです。
ここの合気道は、武道的表現の中で、瞑想的、身体的精度を高めることをしているのです。
身体的表現を進めるうちに、あるプロセスで引っ掛かるところがあるとすると、それは単純な身体的ノウハウだけではなく、そこには心的ブロックが関与している場合が多々あるのです。
そこをしっかり見定めずに、競争の世界に没入していくと、そこを置き去りにして、歪な強さを手に入れることになるでしょう。
それをその人の個性なのだと言ってしまえばそれまでですが、本人にとってはとても違和感を感じる物なのです。
本当の強さというのは、比較競争の中での相対的な物なのではなく、どのような状況でも自分の中で平安でいられるような心の状態でいられることを言うのではないのかと思うのです。
つまり、稽古としては、身体を遣う中での、心(意識)の在り方を試行錯誤し、それを観ていく作業がとても大切なことなのだとわかってくるのです。
それは手と手を取り合い、その距離で始める合気道が最適なのだということも理解できるのです。
なぜ、同じ柔術が発祥なのに、合気道はこのような形になり、柔道はあのような形になったのか、、、
そういうことなんだと思います。