でも、近しい人が亡くなると、この当たり前のことを、ことさらに、思い返し、自分に言い聞かせます。
もう高齢の方で、頻繁には会っていなかったのですが、自分の中では存在感のある人でした。
脳それ自体が直接リアルに接触できないので、観念として脳の中にバーチャルな世界を作り、
その世界にリアルな対象物に対応する存在をつくるので、
実際にリアルな対象物が無くなると、同様にそのバーチャルな存在を消す作業を脳内でしなければならないのです。
なので人は必ず死ぬ、、ということを、
自分に言い聞かせなければならないですし、
他の人にも同様に周知させるために、その類の儀式を執り行うのです。
その方は、奥さんが認知症になり、施設に預けられたばかりでした。
子供はなく、1人で風呂場で亡くなられていたとのことです。
ご時世柄、検死のあと、そのまま焼却され、お別れも最小単位で行われるでしょう。
でも、それは寂しく不幸なことでしょうか。
それは残った人の脳内で展開しているストーリーなだけなのです。
人生に起こる様々な出来事は、いろいろあるとは思いますが、脳の中でバーチャルに展開される物語の様なもので、
いちいちそんなことに振り回されずに、生きるのが一番で、
ただただ、無から生まれて、無に帰っただけなのだと思う方が具合がいいのではないかと思うのです。
それは、決してネガティブな発想なのではなく、むしろ、思い切って積極的なことをする時にこそ、有効に働く考え方の様に思えるのです。
つまり、考え方次第なのです。
幸せも、不幸せも、感じ方次第なのです。
いつ死が訪れるかもしれないという不安や恐怖ではなく、
常に、いつでも死が訪れる可能性があるという覚悟を持とうと思います。
これとても武道的な考え方だと思うんです。
ちなみに、ここの合気道では、相手の攻撃を受け入れるという考え方で稽古をしているのですが、、
まさにこのことを地道に、真摯に実践しているのだということです。
なにより、それがあっての中心帰納なのです。
\(^o^)/
この流れで書くのはなんですが、
ふと成田先生にお会いしたいなと、思いました。
しかし、コロナ禍でのジレンマな状況に困っている次第です。
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