心法とは | 母体武道 合気道 無元塾

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成田伝合気道で唱えられた母体武道をさらに洗練させて、武道のみならず、セラピー、ボディワーク、普段の立ち居振る舞いなどの根元となる普遍的なものをお伝えしております。

押切さんとまた色々話しました。

今、押切さんはここの合気道の"中心帰納"を、ご自身の脳出血による半身麻痺の克服(リハビリ)のプロセスに取り入れて、劇的に回復されたという内容の本の出版を計画されていて、

その心法(中心帰納)を、文筆家の鋭い視点で解説されてらっしゃいます。

現在はまだ下書き中なので、私白石が平井〜成田伝合気道の監修ということで、読まさせていただいているところです。


そんなに遠くない未来に皆さんにお披露目できると思いますので、是非ともご期待ください!!

\(^o^)/


さて、その押切さんの下書きを読んでいて、

世に言う心法という言葉を聞いて、皆さん、どのようなイメージを持っているのかとな想像してみました。

おそらく、それは、実際の攻防においてのリアルタイムに発動するような実践的なものではなく、どちらかというと、リアルから切り離された教訓みたいなものというようなイメージだったりするのではないでしょうか?

例えば、その類の心法を表すものとしては、

「切り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ踏み込みゆけばあとは極楽 」

というような、崇高で、一種境地的な領域に行かないと実現出来ないという、なかなか滅多に到達出来ない諦めのような感じで唱えられているようなものだったり、、

あとは、その都度現れる攻防における問題を解決に対する付け焼き刃的な考え方だったりして、

それは、合気道の形稽古だったら、それぞれの型にそれぞれ固有のイメージや考え方を説明として使い、その型のみの限定ツールのような教えだったりします。

でも、そういう類の心法は、型ごとに違う観念(教え)である場合が専らで、、とすると、その都度、型稽古において違う身体操作することと何が違うのか、、いや同じだろうと思ってしまうのです。

本当は、そういう個別の教えを包括的に、横串で貫くさらに深い汎用性のある考え方が必要なんです。

現代の武道や格闘技をしている人の中で、そういうことまで考えている人はあまりいないのではないでしょうか。

でも、すでに世の中には、脱力とか、丹田力とか、氣とか、合気とか、無とか、空とか、そういう言葉、概念があり、それらが該当するのではないかと言われそうです。

しかしよくよく考えると、それらは漠然としていて、とても曖昧な解釈や説明しかなく、やはり全てを包括するような一貫性のある概念ではないように思えるのです。

つまり、もっと具体的なプロセスを段階的に進めていかないと、たどり着くのに、とても時間がかかったり、歪曲した解釈をしてしまうのです。

そして、インターネットの中の数多ある情報環境の中にいる現代人は、迷子になって最終的な確信にまでなかなかたどり着くことが出来ないのです。

逆に情報が少なかった昔は、その少ない情報を信じて、出来る限り想像(創造?)力を働かすしか手立てがなかった分、現代より会得しやすい状況ではあったとも考えられるのですが、

偏重した思い込みなどで、違うところへ行ってしまうことも多々あったのではないかとも思うのです。

言葉というのはとても大切で、そういう意味で、ここの中心帰納は、一種の発明的言葉であり、また概念であり、包括的心法のツールとして、とても有効なもののだと言いたいのです。

逆にいうと、他の方法を知らないのですが、ぼくの知る限り、心法に関するチャントした体系(システム)とチャートを持っているところを聞いたことがありません。

そして、古(いにしえ)からある質感であるにもかかわらず言語化されなかった中心帰納という新しいキーワードによって、

合気道のみならず全ての武道、身体操作、格闘技、ボディーワークに対して、

現代でいうところの心理学的、カウンセリング的、コーチング的、瞑想的、脳科学的アプローチが、、ひいては押切さんが実践されたリハビリ的なアプローチまでもが、可能になるのです。


つまり、世に数多ある断片的な心法と言われるものを順番に獲得するだけではなく、それらのベースとなる、かすかな感覚でいて、確かな質感を伴う中心帰納の理解を深めない限り、

型稽古は文字通りカタチだけとなってしまうのです。

それは、どれだけ迫力のある、滞りない表現(技)ができたとしても、それぞれの技を順番に組み立てるだけでは、

100年かけても自在性を獲得することはできないし、

かといって、無闇に稽古の中に競技試合を組み込むことをしても、同様なのです。

どうしても中心帰納のような、アウフヘーベン的な気づきによる発想が必要なのです。


江戸後期の剣術界が、従来の木刀による型稽古から竹刀・防具による打込稽古へ転換する時期に、

面・籠手などの防具を着けての打込稽古を「剣法の真意に背く」と否定して型稽古のみを続けた寺田宗有が他を寄せ付けない強さを示したことや、

その後、その打込稽古をやり尽くした白井享が、かつての同門を尋ねて回った時、打込稽古を導入してきた老いた剣客の衰えようを見て、その稽古システムに疑問を持ち、同様に老いた兄弟子の寺田宗有だけには敵わず、弟子になり、そして形稽古の本質を理解することで、極意を会得したというシンボリックな逸話があるのですが、

それは、決して競技試合より形稽古の方が強くなるとシステムなんだと短絡的な考え方ではなく、

彼らの型稽古の中に、禅や、丹田呼吸法など心法の礎となるものをちゃんと組み入れていたことを理解する必要があるのです。

でも、冒頭からの話のように、殆どの人が型稽古とそういう精神修養との間を埋められないのです。

大体が型稽古を果てしなく繰り返すことによって得られる精神論的な発想になってしまうのがオチなんではないでしょうか。


心法とは、反射的に発動する無意識と、その動きを客観的に理解する合理的な思考とをつなげた結果、それに伴う意識的な身体遣いができるようにするための、道具のことで、

それは、誰もが持っていて、いつでも必要な時に無意識的に普段から使っている、一つのものなのです。

それはどう考えても、今の段階では、

中心帰納しか考えられないのです。


\(^o^)/