なんの会議かというと、押切さんの執筆中の本の出版の方法とか、中心帰納ということに関して、これからどう展開していくかとか、特にコロナ禍でやり方も変わってくるでしょう、、というようなことを話しあったのですが、
中心帰納の動画も作っていくというようなことも、ゆるく決めたのですが、いまだ実行できていない現状です。( ;´Д`)
その話し合いの中で、改めて、そうなのかなと気づき、考えされられたことがあります。
それは 中心帰納というよりは"自分に戻る"という言葉に、人は結構反応するということです。
それはどういうことか、
人が今生きている世界は、それぞれの人の思考が作った世界であって、共通した、ひとつの世界ではないのにも関わらず、あたかも確固たる常識的な世界があるかのようにして、みんな生きているのだと思うのです。
そして、そのうち自分が作った世界の中で、生き辛さを感じ始め、不安を覚え、恐怖し始めるのということなのです。
それは自分が作りだした不安であり、恐怖なのだから、そのことを理解して、そこから抜け出せば、全く不安でも恐怖でもないはずなのに、
そこに埋没してしまって、抜け出せない状態なんだと思うのです。
そういうことをほんの微かにでも、無意識的に感じているから、
その埋没から抜け出すことを示唆する「自分に戻る」という言葉にとても敏感に反応するのではないかと思う次第です。
\(^o^)/
では「自分に戻る」とは具体的にはどういうことか?
ググって調べてみても、あまり具体的なことは書かれていません。
似たような言葉では、「我に返る」というのがあるのですが、
正気に戻るとか、興奮が覚めるとか、、こちらの方が少し具体性がある様に思いますが、偶発的に起こる意識状態を意味していて、少し違う気がします。
では、調べた中で、「自分に戻る」方法としては、どんなものがあるかというと、
1つは、結果的に何か良いことか起こるというようなことが書いている内容なんですが、"自分に戻る"という方法はとくに説明はされていない文章が多数あり、
また違う文章では、"自分らしく"生きるという意味として書かれていたり、
あとは、何か身体にあるイメージ的なもので、高次元?なものと繋がるという意味で書かれてました。
そういう、定義としては曖昧なものがほとんどで、とくに深く考えていないのだと思います。
しかし、ここの合気道は、その自分自身をメタ認知するために、"自分に戻る"ことをとても重要視しているというわけで、
で、ここでいう自分に戻る(中心帰納)とは、具体的にどういうことなのかといいますと、、
誤解を恐れずに言いますと、
それは、普段意識していない意識を自分の身体の"中心" に置き直すこと。
意識を置くわけですから、その場所の感覚を感じる様にすること。。
シンプルにそれだけ。
でも意外に難しいんじゃないでしょうか、、
どうですか?
まず、普段自分の意識がどういう状態なのかわかる必要があります。
そして今度は自分の中心は何処なのかということが分かる必要もあります。
そうすると、
中心軸とはどこなのか?
さらに具体的な中心点どこなのか?
点なのか、球なのか?
大きさは?
丹田との関係は?
チャクラとの違いは?
それは、イメージなのか?、感覚なのか?
つぎつぎ、疑問が出てくると思います。
ここの合気道の習い始め、成田先生に中心帰納を行うコツとして、おなかの感覚にフォーカスすることなのでしょうかと、質問したことを思い出します。
深く到達されている成田先生の回答は"境地"であるという禅問答のようなものでした。
僕は、取っ掛かりとして、身体感覚を感じることが重要であるという仮説を立てて、そこを意識して稽古することを始めました。
それは、細かくいうとキリがないので、
突き詰めて、一言でいうと、"瞑想的な稽古"ということになるのです。
それは決して飛躍しすぎではなく、
それはアクティブ瞑想とも言えるものです。
当然、武道なので、
武道的なアクティブ瞑想ということです。
そのアクティブな瞑想をしている時、中心帰納(自分に戻る)という、意識の置き所を意識する。
外に置いていた意識を自分の丹田に戻し、その意識の置き所を感じることで、
世界の見え方が変わるということに気づくことが出来れば、しめたものです。
自分の意識が物理上?中心にあるのことで、意識的にニュートラルな質感になり、目の前の不安や恐怖が自分の作り出したものであるということに気付くことが出来るようになる、、というものです。
それは、いい変えれば、自分の中の自分との関係性が変わるということなのですが、
そして自分以外の他のもの全てに対する関係性にまで拡張して観ていくのです。
相対する人達や周りにある物と接する時に、それを試していくのです。
形稽古の中で、
乱取りの中で、
街中の人ごみの中で、
会話の中で、
お茶碗とお箸を持つ時、
ドアを開ける時、
歩く時、
こうなってくると、所作のすべてが瞑想になるのではないでしょうか。
習ったことはないですが、茶道なんかは、そういう観点で所作をするのではないかと考えるんですがどうなんでしょうか、、
さらに、その延長線上には、体を動かすこともなく、観念だけで同様の瞑想になりますし、
対象を一点から、360度に散らすだけで、弛緩集中的な瞑想にもなります。
ここ最近マインドフルネスという瞑想のことを耳にしますが、日本の武道の中では、とっくにやっていたのではないでしょうか、
繰り返しですが、いずれにしても、どのパターンでもかならず自分に戻る(中心帰納)ことをするのです。
さて、こんなことで合気道が上手くなるのかと言われそうです。
はい、なるんです。
おそらく、相対稽古より、重要な稽古だと思います。
自粛が緩和したら、
是非とも、お試しあれ。
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