『クリシュナムルティがいたとき』(9)

メアリー・ジンバリストによる回想

 

高橋ヒロヤス

 

『クリシュナムルティがいたとき』(原書『In The Presence of Krishnamurti』、メアリー・ジンバリスト著)という本の中で、特筆すべき部分を紹介する。

 

この本は、クリシュナムルティ(以下単に「K」ともいう)が70歳のときから91歳で亡くなるまで彼の同伴者として付き添ったメアリー・ジンバリストという女性が、彼女自身の日記を元にインタビューに答える形で詳細に回顧した記録であり、原文(英語)はインターネット(http://inthepresenceofk.org/)でも読める。

 

日本語も出版されているが、上巻・下巻ともに百科事典のようなボリュームがあり、全部読み通すのはかなりの時間と労力がかかる。これだけの量を翻訳してくれた方の労には感謝したいが、正直、文意を取ることが難しい日本語になっていることもあり、読むのが少々困難な個所もある。

 

本の中身は、途中からメアリー・ジンバリストのつけていた日記を日々説明する形になっているため、日常の瑣事に関する記述(洋服の仕立てとか洗車とか歯医者とか映画とか散歩とか)がかなりの部分を占めている(僕のようなクリシュナムルティ・オタクにとっては、むしろそういう部分が貴重ではあるのだが)。

 

この膨大な記録の中から、ほとんどの読者にとってはどうでもよい瑣事は避けて、Kの人となりやKの教えを知る上で興味深い部分のみを、年代順に紹介してみたいというのがこの企画の趣旨である。

 

<1977年2月~>

2月3日、Kはロサンゼルスのマリブで、メアリーと側近二人(リリフェルト夫妻)に対して真剣に話をした。私たちは花開くのか、そうでないなら、なぜなのか。彼は、仏陀には自らを理解する弟子が二人だけいたが、彼らはどちらも仏陀より先に死んだ、と言った。

 

メアリーがその話を聞いて悩んでいると、Kは「大樹の下では何も育たない」と言った。

それから「私はもう十年、たぶん十五年、あなたたちの周りで手助けするでしょう」と言った。

 

2月15日、地元の図書館から、さまざまな霊的教師たちについての本を特集する中でKの本を推薦したいとの手紙が来て、それについてKはメアリーに、次のように返事することを提案した。

 

「クリシュナムルティは、この五十年間、自らがどの集団、どの宗派、どの信仰、どの導師とも関連付けられることを望まないと明言してきた。Kは、彼らは皆反動主義者、伝統主義者、霊的権威の受容者であると考えるからだ。彼らはKが長年言ってきたこと―自分自身にとって光であれということ―を全面的に否定する。Kは誰にも従わないし、どの導師の権威も受け入れない。」

そしてKは言った。「あなたは、自分がすでに知っていることを信じる。すでに見たものを見る。ゆえにあなたには決して何も見えない。」

 

2月18日、Kがオーハイに向けて車を運転しながら、メアリーに、ここ三、四か月、眠りの間に何がが起きていた、と語った。馬鹿げたことに聞こえるかもしれないが、それはエクスタシーの感覚で、頭脳が深みの中に同化していくようだ。深さというのは浅さの対極という意味ではない。それは、頭脳がかつて触れたことのない何かだ。

 

2月19日、メアリーが妖精についての本の話をすると、Kは若い頃、イングランドの森の邸宅で生活していたときにはよく見た、と言った。

2月21日、コメディ映画「大陸横断超特急(The Silver Streak)」を見に行った。冒頭のお色気の場面で、Kは「ああ、これはつまらないな」とか「ああ、またやって来た」などと言って貶していたが、撃ち合いの場面になると楽しんで見た。

 

2月24日、オーハイを車で移動しながら、メアリーは「私にとってオーハイの村には、何か不快な嫌らしい雰囲気があります」とKに言った。

Kは「それはなぜかわかりますか」と言った。

「敵意があり、葛藤や抗争、妬みの存在を感じます」とメアリーは言った。

「なぜそこにあるんでしょうか」

「そのような感情を持つ人がそこにいて、汚染するからです」

「そのとおり」とKは言った。そして、あなたはそれにどう対処するのか、と言った。

メアリーは、「私は何もしません、ただ感じるだけです」と答えた。

Kは、「どんな抵抗、敵対もあってはいけません」と言った。

慈悲があり、自己はない。防御すべきものは何もない。だが、善を呼び起こしたり、善を守護しようとするとき、抵抗や、悪に対する敵対心をもっているとき、善は存在しえない。

 

ここでKは、悪から守護するための輪(サークル:護符のようなもの?)について触れた。それは一種の魔法であり、メアリーはこの機会に魔法(厄除けの呪法)のことをKに尋ねた。Kは若い頃にそれを学んだことはあるのか、それを他の人に教えてはいけないのか。

 

Kは、学んだことはないが、本能的に知っていると言った。しかしそれについては一度も話したことはないと言った。Kがメアリーと自分が泊まる住居を<保護>したり、建物の敷地に宝石を埋めたりなどすることがあるのをメアリーは知っていた。

 

メアリーが一人で行動するときには、Kがメアリーを保護するのは難しいが、ある程度のことを行う。しかし、Kは自分自身を保護しない。抵抗せず、対立せず、自己を立てることがない。対立が何もないから、自己はない。それをKは、<美しさと善へ開いていること>と呼んだ。

 

Kは、善の力と悪の力があることについて語った。今日、悪の力は尋常でなく広がっている。それは残虐性、戦争、殺し、痛めつけること、動物を傷つけること、自然を破壊することなどに見られる。だが、尋常でない善の力がある。

 

Kはメアリーに、リリフェルト夫妻(Kの側近)にこの<中心なき無自己の感覚>について話してほしいと言った。魔法は教えてはならない、と言った(たぶんKは、メアリーがKと共に過ごす中で自然とKのやっている<保護>のための行為を学んだことを指しているのだろう)。

 

3月3日、Kはアーリヤ・ヴィハーラ(カリフォルニア・オーハイの別荘地)で、世界中の理事たちを集め、会合を開いた。そこでのテーマは、Kが死んだときに何が起こるかについて議論することだった。

 

書籍やら録画されたテープだけでは十分ではない。教えを保護するためのセンターは必要だが、それは事務的な管理に限定されるべきで、教えを理解した人々がそれを伝える仕事とは区別しなければならない。

 

Kは、Kの存命中に、彼の言うことを理解し、その理解を人々に伝えることのできる集団が形成されるべきだと力説した。ここでの議論の内容は、The Perfume of the Teachings Working with J. Krishnamurti(教えの香り クリシュナムルティと共に働くこと)という冊子で読むことができる。

 

Kはとりわけ、欧米の理事たちとインドの理事たちの深刻な対立を解決し、分離を避けようと気を配っていた。インドからの参加者は、教えの純粋性を維持するために特別な「頂点の集団」を設けるべきだと主張し、欧米の理事たちはそれは神智学協会に「秘教部門」を設けた過ちを繰り返すものだと反発した。

 

Kはここでも、理事の中に教えを理解する人がいるかどうかを問いかけた。Kが死んだあと、このセンターを訪ねてきた人に、あなた方はどう応え、どう振舞うのか。あなたは、Kと共に過ごしてきて、彼の何を掴んだのか。ただ書物を提示するだけなのか。

 

Kは、「あなた方は本当にこれを求めたことがない。本当に求めるならば、それを得る」と言った。「基礎を敷くだけで全人生を使ってはいけない。それはすでに敷いてある。何かはるかに大きな、それ以上のことが起きなければならない。」

 

その討論には、神智学協会の会長をしているインド人・ラーダー・バーニア女史も出席していた(ラーダーはインドの富裕層で知的水準の高い階層に属し、若い頃に女優として活動したこともある)。KはラーダーがKの財団の理事であると同時に神智学協会の会長であることの矛盾について長いこと話し合った。彼女は、そこに矛盾があるという自覚をまったくもっていないようだった。もしKが彼女に、「どうか、神智学協会を辞めてください」と言えば、彼女はきっとそうしただろうが、Kは決してそういうことは言わなかった。

 

Kが理事たちにあまりにも情熱的に語りかけたので、その力に圧倒されて皆静まり返り、メアリーは終わった後も体の震えが止まらなかったという。

 

Kはここで、理事たちに全く違った次元で「聞く」ことを求めていた。

「意識は反応です。深く聞くときには応答はありません。その深い水準に<あなた>と<私>は無いのです。何かとてつもないものがここにあります。あなたは表面でKを聞いています。そして、そこに降りて行こう、聞こうと努力しています。それではうまく行きません。あなたは、波を起こすことなく聴けるでしょうか。背景や知識をもって聞くこととは別のことです。あなたは動きなく聞けるでしょうか。私はそのように聞いてきました。たとえば、ヒトラーを。そして即座に彼が何なのかがわかりました。あなたたちが、言葉なくより深い次元で聞くなら、何か全然違ったことが起こります。静寂の中で本当に聞くなら、私がないから、あなたは世界です」

 


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