MUGA表現研究会のブログ

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MUGA表現研究会の活動報告、勉強会、イベント情報他、メルマガMUGA連載執筆陣のお勧め作品、アーティスト等をご紹介します。

 MUGA 第95

「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

 

MUGA表現研究会発行 月刊メルマガ 

 

◆目次

 

◇対談 2019 6/5 四谷の事務所にて

 

無条件の「愛」と「競争」のバランス

 

ゲスト・長岡真意子氏(子育て研究家・子育てコンサルタント・ライター)

 

◇哲学

 

クリシュナムルティ解読13 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

 

    那智タケシ

 

13章 欲望

     法衣は欲望から自由でありたいという欲望を象徴している

     しかし、あなたの心が、数えきれないほどの

     期待、欲望、信念、葛藤によってゆがめられているとき

     外面的な物を放棄するだけで自由になることができるだろうか

 

◇エッセイ

 

脱資本主義リアリズム宣言~学校で教えてくれない音楽と共に0円で生きる

 

高橋ヒロヤス

 

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クリシュナムルティ解読5 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

 

    那智タケシ

 

第5章 行為と観念

    私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている

    あのようになりたいという絶え間ない葛藤が

    私たちを苦しめつづけている

 

 人はなぜ葛藤し、苦しむのでしょうか?

 

 クリシュナムルティ(以下K)は、心の苦しみの最大の原因は、「あるがまま」から離れ、「あるべき」へと至ろうとする自我の働きによるものだと言います。「あるがまま」以外の「何者かになる」「何者かになりたい」という欲求こそが、心に矛盾、分離、葛藤を生み、人を苦しませ、不幸にしていると言うのです。Kの言葉を引用します。

 

『私たちの日常生活は、常に何かになる過程にほかならないのです。「私」が貧乏であれば、金持ちになるという目的をもって行動します。「私」が醜ければ美しくなるということを望みます。こういうふうに、「私」の生活は何かになる過程なのです。生きる意志というのは、意識の様々な異なったレベルで、またいろいろ違った状況の中で、何かになろうとする意志なのです。そしてその過程の中で、刺激、反応、命名、記録などが生じてくるのです。ところで、この何かになるということは葛藤であり、苦痛ではないでしょうか。つまり、「私はこれである、だから私はあれになりたい」ということは、絶え間のない闘争にほかならないのです。』(p.55

 

 Kが言っているのは、人は「私」という確固とした固定点を「自分」だと思い込み、それが故に――固定的で、実体的であるが故に――、「私」を「より良きものにしたい」という心の働きが生まれ、それが苦しみになるということです。

 

 確固とした枠組みのある、世界から分離した一つの「私」があるが故に、この「私」をより良いものにしたい、さらに特別なものにしたい、大きなものにしたい、より幸福なものにしたい、という心の働きが生まれ、人は「あるがまま」とのギャップに苦しみ続けます。ですから、問題の根源にあるのは、実は、確固とした枠組みのある「私」という単位そのものなのです。

 

 「私」という確固とした我の認識がある限り、人は必ず「自」と「他」の二元の世界を生きることになります。自分の手の中には「私」という唯一無二の大事な宝しかないとしたら、それをより美しくしよう、より高価なものにしよう、より魅力的なものにしよう、と努力するのは当然です。しかし、その「より良く」は、「他者」と比べて「より良く」なのです。

 

 ここに自己中心的な――世界中心的と言い換えてもいいかもしれませんが――自我認識の働きの限界があります。「私」と「他者」を分離して、確固とした別々の単位であると認識している限り、そこには必ず比較、競争、葛藤、の戦いが生じ、人の心は永遠に休まることがありません。

 

 「私」とは何でしょうか?

 

 人はそれを記憶の総和であり、感情の総和であり、思考の総和であり、身体の総和であり、その総和の集積を一つの「私」であると認識しています。つまり、様々な部屋が寄り集った、確かで、堅牢な、お城のようなものとして「我」を認識しています。問題は、現代人のほとんどは、このお城をあまりにも固い城壁で覆い、他の建築物と分け隔て、塔の高さや、防御の固さや、美しさを競い、そのお城を構成している材料や、部屋のインテリアや、壁の色彩の流行等が、城砦の外からやって来ているものであり、自家生産しているものではない、ということに気づいていないことです。

 

 人は、自分が思っているよりも、自分固有のものなど持ち合わせていません。自分の思想的傾向であれ(右翼的であれ、左翼的であれ、ことなかれ主義であれ)、様々な知識であれ、技術であれ、世界観であれ、何であれ、それはすべてこの「世界」に隆起した現象を素材にして成り立っています。その素材を集積・編集したものが「あなた」であり、「私」です。それは確固としたものではなく、流動変化しているものです。

 

 主体的な立場から見れば、「私」とは本来、常に世界に向かって開かれた存在であるはずです。未知に向かって開いた、無限界の存在であるはずです。エゴによって生じたセルフイメージが存在しないとしたら、確固とした、他者から分離した「私」など存在せず、ただこの世界の現象の調和的結晶のようなものがあるだけなのです。

 

 しかも、この結晶は、瞬間、瞬間、生まれては砕け散り、再び隆起する、この世界の生き生きした、神秘的な働きそのものなのです。つまり、この観点から厳密に見てみれば、絶対的で、固定的な「我」など存在しないということになります。

 

 確固とした「私」は存在しない、という物言いに、エゴを大きくして成功することを奨励され、教育されてきた多くの現代人は拒否反応を示すかもしれません(悟り世代という言葉もあるくらいですから、そうでもない人もいるのかもしれませんが)。あるいは、自己愛の強い傾向にある人ほど、「私」というセルフイメージを壊したくないと思うかもしれません。しかし、その大きくなったエゴや、美しいセルフイメージこそが、現代人の苦しみの大きな原因となっているのです。そのエゴが成功できなかったり、愛されるべき「私」が愛されなかったり、否定された時、我々は反動として、大きな葛藤、苦しみを味わいます。それが受験の失敗であれ、エリートコースからの挫折であれ、不和な家庭生活であれ、何であれ……

 

 現代人の多くは、「私」という絶対的な固定点を設けて生きています。それが故に、この「私」が否定された時には、世界の否定であり、全存在の否定であり、生きることの否定となり、出口がなくなって、絶望に陥ってしまうのです。そこで、他人や、社会から否定されないために――他人から尊重され、愛されるために――「私」をよりよく、より美しくしようとする努力が始まります。再び「あるがまま」と「あるべき」の二元のギャップの間で苦しみながら格闘する、あの焦燥感に満ちた、葛藤の日々が始まるのです。

 

 仏教で言う「無我」とは、この固定化した「我」を破壊した先の「世界」の働きそのもののことを言います。

 

 「諸法無我」とは、「私」だけではなく、すべての現象に固定的な実体など存在しない、という真理を簡潔に述べた言葉です。

 

 また「五蘊皆空」といった言葉もあります。五蘊とは、「色受想行識」という人間存在を構成する五大要素のことです。この五蘊が空であること(実体がないこと)を悟ることで、人はエゴや、俗世の執着から免れる、とするのが仏教です。

 

 般若心経などで表現されているのは、色即是空の「空」とは、「私も」も含めた一切の存在には実体はなく、すべては諸々の現象の関係性によって生じた束の間のものであるから、観念や、我見や、愛着等、すべての執着から本来、人は自由であり、縛られることもない、ということです。その真理を悟ることで平安を得ました、というシンプルな喜びを語っているのが般若心経という有名なお経です。仏教の目指すところは、この空性の認識による無執着であり、平安の境地です。だからこそ、仏教の修行者は俗世の執着から自由になるために出家したのです。

 

 Kもまた、「私」という固定化した自我を破壊した先に、人間という存在の可能性を見い出した宗教者の一人でした。ただし、時代的背景から、一人ひとりの心の「平安」で終わることをよしとせず、自我の枠組みを壊し、乗り越え、エゴイズムを超克した新しい人々が、エゴを越えた新しい関係性を構築する――すなわち一人ひとりが既存の観念や常識に縛られない、絶対独自な、天才的な存在になって「創造性」を発揮する――可能性に期待していたのだと思います。そしてこの創造的行為の土台にあるものこそが、「私」という中核を破壊した末に生まれる、自発的な「愛」の働きであるとしました。

 

 さて、一つの感情が隆起した時、私たちの内部に生じる具体的プロセスについて、Kの説明に耳を傾けてみることにしましょう。

 

『何かを経験している瞬間には、あなたはあなた自身を、経験そのものから離れた経験者として意識しているのではありません。あなたはただ経験という状態の中にいるだけなのです。ここでごく簡単な例をあげてみましょう。たとえばあなたは怒っているとします。怒っている瞬間には、経験者も経験も存在していません。ただ経験しているだけなのです。しかし、あなたがその怒りから抜け出すや否や、経験している状態の直後に、経験者と経験――行為者と目的をもった行為――が現れて、その怒りから逃れようとしたり、あるいはそれを押し殺そうとするのです。私たちは繰り返しこのような本当に経験している状態の中に入るのですが、私たちは常にこの経験の外に抜け出して、その経験にレッテルをはったり、名前をつけたり、記録したりして、その結果、何かになることに持続性を与えてしまうのです。』(p.56

 

 今、「怒り」が生じたとしたら、「怒り」は「怒り」です。それはあなたの「怒り」ではありません。「悲しみ」が生じたとしたら、「悲しみ」は「悲しみ」です。「喜び」が生じたとしたら、「喜びは「喜び」です。それはあなた固有のものではなく、瞬間、瞬間、自他の関係から生じ、隆起した一つの現象であり、一つの事実です。その事実を自分にとってネガティブなものだから認めようとしなかったり、無理やりに抑え付けようとしたり、ポジティブなものだから持続させようとしたり、執着したりするのがエゴの働きです。しかし、海の波を手の中に留めてはおけないように、本来、それは「私」の中にいつまでも留めておけるような性質のものではありません。排除したり、改良したり、変更できるものでもないのです。

 

 つまり、私たちの心の苦しみが私たちの中に根付き、増大してしまう最大の原因は、その瞬間に生じた感情の働きの一つひとつを「私の中に生まれた固有の感情である」と認識してしまうことにあるのです。

 

 一つの感情に「私の」を付け加え、自分に紐付けてしまうことによって、その感情に執着し、それを変えよう、あるいは抑圧しよう、排除しよう、というエゴの努力、葛藤が生まれ、苦しみが根付き、増大してしまう――これが人間の心理的な苦しみに関する根本的なメカニズムであると思います。

 

 例えるなら、一つの波のように世界の因果から隆起した感情をお城の中に囲ってしまい、それを「私の感情」だと思い込み、逃さないようにするからこそ、人はその感情を「何とかしなくてはならない」「なくさなければならない」「より良くしなければならない」「再び生じないようにしなければならない」あるいは「手放したくない」などと感じるのです。その感情が「私」のものであり、自分のお城の中から消えてしまうものではないと思い込んでいるからこそ、どうにかしようとして必死になるのです。しかし、波というのは、隆起すれば(本当に表現されれば)どこかに消え去ってしまって当たり前のものなのです。

 

 「私は怒ってしまったけれど、怒ってはならない」。「私は嫉妬してしまったけれど、本当は嫉妬していないんだ」。「私は自尊心を傷つけられたけれど、本当は気にしていないんだ」という風に、一つの感情に「私」が紐付いていることによって、ネガティブな感情を否定したり、無理やりに改良しようとしたり、目を反らしたり、なかったことにしようと巧妙に心理操作したりしながら、自分を必死に守ろうとするのがエゴの働きです(それは自分の内部を見つめれば、はっきりと見て取れると思います)。

 

 そうやって、美しいお城の形を保ちたい、あるいはより高い、壮麗なお城に改築したい、と人は望みます。何とかして、自分の中から生まれたネガティブな感情を排除したり、改良したり、役に立つものにしたい、新たな城壁の材料にしたい、と考えるのです。あるいはそれがポジティブなものであれば、いつまでもお城の宝物庫に入れておき、永遠に手放したくない、時々は手に取って眺めたい、などと執着することもあるでしょう。

 

 Kの哲学は、このお城(自我)自体を解体して、人の精神を根本的に自由にすることを目的としています。そのためにこそ、あるがままの現象をあるがままに見つめ、その一つひとつの働きがどうやって生じてくるかを厳密に見つめ、それが世界の因果や、自己防衛本能から生まれたものであると理解し、「私」からの紐付けを断ち切って、それらから一つひとつ、瞬間、瞬間、自由になっていく作業――「瞑想」を勧めたのです。

 

 さて、私たちが「自分のものだ」と思いこんでいる「思考」とは何か?ということについて、Kの明晰な説明を引用してみます。

 

『つまり思考というものは、感覚に対する感覚器官の直接的反応か、あるいは心理的な反応、つまり蓄積された記憶の反応なのです。一方は感覚に対する神経の直接の反応であり、他方は蓄積された記憶――民族、集団、精神的導師、家庭、伝統などの影響――の心理的な反応であり、これら全てを含めたものを思考と呼んでいます。』(p.59

 

 すなわち、Kが言っていることは、自分の中に生じた感情、思考、あるいは根付いた観念が、自分固有のものではなく、関係性の因果から生じたものである、ということです。「私だけのもの」など肉体的にも、精神的にも何処にもありません。

 

 この事実を理解していくと、自分という存在を確固のものとして構成しているように見える、思考、感情、記憶等、ひと固まりにくっついていたものがバラバラに解体され、断片化して地に落ち、世界に帰っていきます。一度に崩壊するかもしれませんし、一つひとつ、積み石を崩していくように消えていくこともあるかもしれません。それはわかりません。どちらにしろその時、人は「それが自分である」と信じ込んでいた堅牢なお城が、空中楼閣のようなものに過ぎなかったことに気づくのです。

 

 さて、気になるのは、「私」のものだと思い込んでいたお城がなくなった時に、そこに何があるか、ということではないでしょうか?

 

 「私」という確かな輪郭のある、安定した実存感覚が消え去った時に何があるのでしょうか? お城からの解放の先にあるものは何でしょうか?

 

 そこには、世界があります。

 

 主体的に見れば、「私」という確固とした枠組みや、過去の伝統・常識から自由になり、融通無碍に流れ動く現象そのものとダイレクトに繋がって、未知なるものに向かって開かれた、まったく独自な精神があります。

 

 ここには、新しい人間がいます。

 

 彼は、新しい動機でもって立ち上がり、エゴという単位を超えた、新しい行為しようとするでしょう。その新しい行為の源になるものは何でしょうか?

 

 Kは、ここで突然、「愛」という言葉を用います。「私」という単位から始まらない行為がある時、そこに「愛」があると言うのです。

 

 とは言っても、「愛」の働きがどういうものか、ということについて、彼は多くを語りません。それは一つの答えのある観念ではなく、瞬間、瞬間、具体的に、それぞれが各々の生の中で「表現」していくものだからです。むしろ彼の日記や、手記における自然描写や対話等の透徹した文体の中に、その世界観が刻印されているように感じます。

 

 最後に、本章のタイトルである「行為と観念」についてのKの印象的な言葉をいくつか引用し、終わります。

 

『愛があるときに行為があるのではないでしょうか。しかもその行為は私たちを自由にするのではないでしょうか。それは精神作用の結果ではありません。また観念と行為の間にあるギャップは、愛と行為の間にはないのです。観念は常に古く、その影を現在の上に投げかけています。そして私たちは行為と観念の間に、絶えず橋渡しをしようとしているのです。愛があるとき――この愛は精神作用でもなく、観念形成でもなく、記憶でもなく、経験や鍛錬でもありません――この愛そのものが行為なのです。それこそ私たちを解放してくれる唯一のものなのです。逆に精神作用があるかぎり、また観念によって行為が決定されているかぎり、解放はありえないのです。こういう過程が持続しているかぎり、あらゆる行為は制約されているのです。この真実が了解されたとき、精神作用でもなく、またあなたがそれについて考えることもできないような愛の本質が生まれてくるのです。』(p.6162

 

『私たちが観念に縛られているかぎり、私たちは本当に経験することができない状態におかれています。そして私たちはただ単に「時間」の領域で生きることになるのです。つまり過去――そこからさらに別の感情を生んでゆきます――の中で生きたり、あるいは未来――これもまた感情の別の形です――の中で生きることになるのです。これに対して本当に経験ができるのは、精神が観念から自由になったときにかぎるのです。』(p.62

 

『観念は真理ではありません。真理は刻々に、直接経験されなければならないものなのです。それはあなたが望んでいる経験ではないのです。というのは、経験は単なる感情に過ぎないからなのです。「私」であるとか、精神であるとか、また部分的、あるいは完全な持続性をもつ諸々の観念を乗り越えることができたとき、そしてそれを超えて思考が完全に静止したときにのみ、本当に経験する状態が訪れるのです。そのとき初めて、私たちは真理が何であるかを知ることができるでしょう。』(p.6263

 

 

※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。

 

◇哲学

 

クリシュナムルティ解読2 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

 

    那智タケシ

  

第2章 私たちは何を求めているのか 神を発見する旅に出る前に、まず自分自身を理解すること

 

 クリシュナムルティ(以下=K)は、徹底的に自己認識の重要性を説いた人でした。精神的指導者や、教師、ある種の組織、観念的体系、イデオロギーなどを信じて安住しようとする自我の逃避的行為を直視し、「まずはその逃避的行為自体の働き自体を理解せよ」と説きました。その求道的かつ逃避的な自我の働きそのものの理解の中に、精神の解放があることを見抜いたのです。

 

 それが究極の悟りを開いたと自称する導師であれ、素晴らしく感動するお説教であれ、有機的で精緻な理論であれ、世界全体を包含するように見える観念であれ、様々な瞑想法であれ、特定の人物やメソッド、一つの体系によって人をある特殊な状態や、解放、完成に導くとされるシステムそれ自体への傾倒が、自我の逃避的行為そのものであり、あるがままの真実からの分離であると指摘しました。

 

 指導者の境地や、理論、メソッドそれ自体の効果・価値はさておくとして、まずは、自分の外に絶対的な真実と解放を求めてさ迷う自我のあり方それ自体を理解することなくしては、すべては真実からの逃避になってしまうと言うのです。

 

 重要なのは、解放の出口を求めてさ迷う「自我の働きそれ自体」であり、その「理解」こそが真実そのものだということです。つまり、自己認識こそがスタートであり、ゴールでもあるのです。問題と真実はあなたの胸の中にあるのですから、それ自体に取り組むのが最も理に適っているということです。自分の胸の中の苦しみを理解するために、わざわざインドにまで行く必要はないのです。問題は、誰よりもあなたに最も近い距離にあるのであり、誰か他の人がその胸の苦しみを手に取って、代わりに手取り足取り解消してくれるわけではないのですから。

 

 ソクラテスには「汝自身を知れ」という格言があります。「自分が何を求める、どのような存在であるのか」という自己認識の土台なくしては、真実の探求というものはすべて、あるがままの自分からの逃避になってしまいかねない、ということです。ですから、求道の始まりはあなたの内的問題であり、終わりもまたその内的問題に自ら直接的に取り組むことなのです。

 

 求道の道に入る動機には、様々なものがあるでしょう。上手くいかない人間関係や、アイデンティティの確立の悩み、実存的虚無感の問題、自己実現の挫折、病気や貧困、様々な精神的苦しみ・・・これら具体的な苦しみの根底にあるのは、「あるがまま」でいられない、いることを許さない、という社会からの「こうあるべき」という条件付けだと思います。競争を強いられ、社会的に何ものかであり続けなくてはならないというプレッシャーが、今、多くの人を苦しめているのです。こうした社会の中で、人は知らずしらず「あるがまま」からの分離を強いられ、虚無感や、挫折感、自己否定感に苛まれているように見えます。

 

 だからこそ、この資本主義社会で上手くいかない、あるいは上手く生きられない人ほど俗世の価値を越えた絶対的真実を求めるようになるのですが、そこには一つ落とし穴があります。「あるがまま」の自分を理解するのではなく、「それ以上の存在と一つになりたい」「何か特別な存在になりたい」という社会から教え込まれてきた「あるべき」への条件付けが、再びそこに顔を現すのです。それは姿を変えた成功願望であり、結局、「あるがまま」からの逃避であり、分離の道です。

 

 こうした求道は大抵の場合、「凡庸で、何者でもなく、不安定な自分から逃避したい」「自分以上の存在になりたい」「特別な私になりたい」という願望と一つになって、求道や修行を続ける中で、何かを達成したと思えば思うほど、あるがままの真実から遠ざかるというパラドクスとなります。

 

 ですから、外部に真実を求める求道というものは、残念ながら安心立命の道になりません。一時はゴールに至ったと感じたり、高揚感を覚えても、「あるがまま」の真実という土台なくしては、心が休まりませんから、どこか不安です。表面は取り繕っていても、どこかで落ち着かないのです。それで、ふらふらと様々な教師の元を行ったり来たりしたり、ある種の観念の中に逃げ込んで自己洗脳をしたり、下手をすると知らず知らず他人のエピゴーネンになって、定型句のような言葉や観念を自分の言葉のように繰り返すようになります。様々な情報に満ち溢れた現代社会においては、こうした求道は、むしろ人を凡庸にしてしまいかねない、実に危険なものなのです。それをやればやるほど、「あるがまま」の真実から遠ざかり、自我を強化して、戻ることが困難になってしまう可能性さえあるのですから。

 

 なぜ、自分は真実を求めるのか? 救われようとするのか? 

 

 その最初の働き自体を正確に見つめ、刻々とトレースしながら、本当の自分を理解することが真の自己解放の道の最初の一歩です。あるがままの真実という土台がなければ、どれだけ様々なメソッドを学び、修行をしても、すべては空中楼閣のようなものに過ぎません。理解すべき真実は、今、目の前にあるのですから、それを一つひとつ解きほぐし、理解することから始めればいいだけなのです。

 

 Kの言葉を引用してみます。

 

『たとえば、私たちが心の平安を求めている場合、それはいとも簡単に見つけ出すことができるでしょう。何らかの主義や思想に盲目的に自分の身を捧げ、その中に避難することはできるかもしれません。しかし、明らかにそれでは問題の解決になりません。一つの思想に閉じこもって孤立するだけでは、闘争から解放されたことにはならないからです。したがってどうしても、外面的にも内面的にも、私たちがめいめい何を望んでいるのかをまず見い出さなければならないことになります。この点さえはっきりしていれば、わざわざ教師の言葉を求めたり、教会へ通ったり、いろいろな組織を訊ね廻る必要もなくなります。この場合、まず私たちが解決しなければならない問題は、自分の意図を自分の心の中で明確にすることではないでしょうか。これが一番難しい問題なのですが。』(P19

 

『ところで私たちはこの問題に明確な解答を出すことができるでしょうか。またその明確さは、探求したり、あるいは、上は最高級の導師(精神的指導者)から、下はすぐ近くにある教会のごく普通の牧師まで含めて、誰か他人の意見を探し廻ることによって生まれてくるものでしょうか。またそれを知るために他人のところへ行く必要があるのでしょうか。私たちは皆、そういうことを常にやっているのではないでしょうか。私たちはおびただしい数の本を読んだり、集会に参加して討論したり、いろいろな組織に加わったりして、日常生活の中で起こる闘争や悲惨の救済策を発見しようとしています。あるいは、それを全部試みてみないにしても、私たちは求めていたものをすでに発見してしまったと考えるのです。つまり特定の組織なり導師なり書物などが、自分を十分満足させてくれたと私たちは言うのです。そしてその中に私たちの望んでいるすべてのものを見つけ出して、結局、一定の型にはまり込み、自分の周囲に壁をめぐらしてしまうのです。そうではありませんか。あなたは。』(P1920

 

『私たちはたいてい、心の中で何か恒久的なもの――すがりつけるもの、確信や希望や、持続する情熱、安心感などを求めているのではないでしょうか。なぜなら私たちの心は全く不安定だからなのです。私たちは自分自身を知らないのです。私たちは事実や、本の中に書いてあることはたくさん知っていますが、物を介さずに、自分自身の力だけで知ったり、自分で直接体験することがないのです。』(P2021

 

 Kの言葉は、一見、取り付く島がありません。容赦がなく、逃避的な働きを続ける自我そのものに突き刺さってきます。真実を知っている誰かや、理論、組織に逃避するのではなく、あるがままの自分自身を見つめ、理解することでのみ、真の解放があると説くからです。真実というものは、誰によってでもない、自分自身でしか見つけることはできないし、その方法もありはしない、と言います。

 

「そんなことを言われても、どうしていいかわからない」「あるがままの自分を見つめるとか、理解すると言っても具体的にどうすればいいのか?」「その方法を教えてください」と人々は口をそろえて言います。これが「クリシュナムルティは難解だ」「真実であっても、方法がないから実践することはできない」などと言われる所以です。しかし、それは難解であるわけでも、方法がないからでもなく、ただ単に、「あるがままの真実を見たくない」という現代人の肥大化した自我の働きによって、そう感じているに過ぎません。

 

 問題は、今、この胸の中にあるのです。ただ、それをそのままに見ればいいだけです。そこから離れずに、ひたすら追いかけていくだけでいいのです。今、この瞬間も動き、変化している自分の心の働きを正確に見つめ、追いかけ、それと一つになり続け、それが観たくないものであっても、受け入れたくないものであっても、自分自身を偽ることなく、そのままを受け入れて、生活の中で素直に表現していけばいいだけなのです。

 

 不安だったら「不安だ」と言い、苦しかったら「苦しい」と言い、「悲しかったら」悲しいと表現しましょう。嫉妬していたら「嫉妬している」ことを認めましょう。あるがままの自分自身であり続け、その上に立って、自分を偽らずに生きるのです。するとそれが習慣になり、いつの間にか、観ているものと観られているものは一つになり、追いかけているものと追いかけられているものは一つになり、二元対立の分離がなくなって、気づけば、あなたは真実そのものを生きていることになるはずです。

 

 真実と共にあれば、それがどんなに無様で、格好悪いものであったとしても、人は自ずと心の静謐を取り戻すでしょう。いや、取り戻さざるを得ないのです。なぜなら、本当はそれ以外にはないということを知るからです。何かどこか隠れた場所に別の自分があるとか、真実の絶対的な我があるとか、永遠普遍の悟りの境地があるとか、それを求めなくてはならないから今は未熟だとか、どこどこに解脱した本物のグルがいるとか、成功した自分にならなくてはならないとか、そういう「あるべき」への理想が終われば、「あるがまま」から離れようとする葛藤の働き・作用がなくなるからです。

 

 「あるがままのそれ」しか真実はありません。ですから、それを生き、それに触れ続けることでこそ、それを変容するチャンスもまたあるのです。それを変えることができるのは、どこかの高名な誰かではなく、それと共にあり続け、直接触れることのできる、あなただけなのです。

 

 「あるがまま」と共にあれば、「あるべき」や、「なりゆく」という最大の葛藤から人は解放されます。もしかすると、その静けさの中に、「あるがまま」の自分以上の何かかが宿ることもあるかもしれません。いえ、きっと何かが宿る瞬間があることでしょう。Kの瞑想や、それにまつわる神秘というのは、実はこうしたシンプルなもので、そこに何かの秘密があるわけではありません。神秘というものは、難解で、高尚な観念にではなく、こうしたシンプルな、あるがままのものにこそ宿るのです。にもかかわらず、「あるべき」という理想の達成に縛られた我々は、それをそのままに見たがらないのです。人は、「真実を知りたい」と口にしますが、「真実の自分自身を見たい」とは決して言いません。

 

 様々な新興宗教や自己啓発・スピリチュアルのセミナーは、「永遠普遍の真実」や、「絶対平安の悟り」といったものを提唱しながらも、この逃避や慰安、社会での成功をほのめかし、真実の言葉とブレンドして自我に働きかけ、多くの人を集めています。しかし、本当は他人の言葉やメソッドではなく、苦しめている当のものそれ自体の理解の中に、真実と解放があるのです。だから、問題は単純なのです。

 

 Kは繰り返し、「それ自体を理解し、変えなさい。それで終わりです」と言いました。確かに、その通りです。不安を解消したいなら、今、自分の胸の中にある、不安そのものにそのままに取り組み、理解することが第一です。しかし、人はどうしても不安そのものに当たらず、不安を解消してくれるメソッドや、自分を癒してくれる観念や、精神を安定させる呪文のようなものや、他人の言葉の中に救いを求めます。「自分の内部をいきなり見つめことは難しいから、まずは松葉杖が必要だ」と言うのです。今、目の前にある花を見るのに、スマホの画像を見たり、ネットで花の名前を調べたり、いつか花を観に行くために観光地を調べたりして、そこにある花をそのままに見ようとしません。

 

 この逃避構造は、自分自身の自我の働きを見つめ、正確にトレースしていけば、自ずと理解できることと思います。とにかく、人は真実を見たくないのです。あるがままの自分を見たくないし、認めたくないのです。しかし、その逃避の働きそれ自体が「あなた」であり、「真実」なのです。逆に言えば、「今、逃避しているな」と気づいたら、それは即座に逃避をやめて、静謐を取り戻すことでしょう。

 

 Kの言葉に戻ります。

 

『それでは、この求めている人と、求められている対象とは違ったものでしょうか。「私は幸福を求めている」というとき、求める人とその対象は別のものでしょうか。また考える人とその人の考え――思考――とは違ったものでしょうか。それらは別個の過程というよりはむしろ、一つの一体化した現象ではないでしょうか。従って、求める対象を発見する前に、それを求めている人間、すなわち「私」を理解することが、とりわけ重要なことではないでしょうか。』(P22

 

『自分自身を知るということ――この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。これは自明の理ではないでしょうか。ですから、私たちが何かを建設したり変革する前に、また非難したり破壊したりする前に、まずあるがままの自分を知らなければならないのです。従って何かを求めて歩き廻ったり、指導を求め、次から次へと導師を変えたり、ヨガとか腹式呼吸とか礼拝をしたり、師と言われる人の後を追ったりすることは、すべて無益なことではないでしょうか。私たちが信奉しているその人が、「あなた自身を分析しなさい」と言ったとしても、それには何の意味もありません。なぜなら、私たちのこの姿が、そのまま世界の姿なのですから。もし私たちが、けちで、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であれば、その通りのものを私たちの周囲に生みだし、それが私たちの住む社会になるのです。』(P2324

 

 実は、Kは、ごく当たり前のことを言っているに過ぎません。俗な言葉で言えば、「素直な、自分自身であれ」と言っているだけです。自分自身のそのままを見つめて、それからぶれることなく生きていけば、人は真実の生を生き、真実に基づいた人間関係を築き、そこから新しい社会のあり方が生まれることになる、ということです。

 

 現代社会は「あるがまま」の真実ではなく、「あるべき」という観念を土台にしているために、多くの軋轢や差別、経済格差、戦争、テロリズムなどの様々な問題を抱えてしまっています。そのほとんどが、「あるべき」によって条件付けられ、肥大化した自我の集積と争いによるものなのです。ですから、もしもあなたが自分を救い、この世界を少しでもより良いものにしたい、と願う真摯な人間であるならば、最初に取り組むべきは、この自我の問題であり、それを解消することであって、「特別な自分」「真実の自分」になるための努力ではないということです。

 

 禅語には、「柳は緑、花は紅」などと言う言葉があります。これは「柳は緑であり、花は紅である」と言うだけのことで、「あるがままのそれ以外のものではない」ということです。道元禅師の有名な言葉には「眼横鼻直(がんのうびちょく)」などと言うものもありますが、これは「眼は横に付いていて、鼻は縦に付いている」それ以外のものではないということです。これはKが言うところの、「観るものと観られるものは一つ」と同じ意味です。そこには、「あるがまま」のものしかないのです。他に余分なものは何もないのです。付け加えることも、装飾することも何もありません。すべては完璧で、事足りています。

 

 「あるがまま」の現象しかないわけですから、実は、その「あるがままの働き自体」が神秘なのです。それを自覚してしまえば、恒常的な平安の境地を求めるとか、特殊な神秘体験を追い求めるとか、そうした絶対的なものを求めるという「あるべき」への願望は終焉します。あるいは、自分以上の存在になりたい、という逃避的願望が終焉します。それが「自我の終焉」ということです。もしも、目の前に展開する「あるがままのもの」それ自体が神秘となるとしたら、そこに何か彩った観念や、特別な意味を付け加える必要はないのです。

 

 「あるがまま」と共にあるということは、固定的な「私」の終わりも意味します。なぜなら、その「あるがまま」とは自他の関係から生まれる感情や、事物の働きそのものであり、その働きと共に生きる時、あなたは「世界」となっているからです。そこには、流動変化して、生成消滅し続ける「あるがまま」しかないのです。だからこそ、仏教ではすべては縁起から生成隆起する刹那の現象であり、「無我」を唱えます。固定的で永遠普遍の事物は存在しない、すべての事物に実体はない、という諸法無我を言うのです。

 

 しかし、この「あるがまま」の中には、すべてがあります。単純に見えて、世界の働きそのものですから、そこからどんなものでも引き出せるし、理解することも無限にあるのです。どんな境界線もありませんし、地平線も、限界もありません。意外な、未知なる存在に出会うこともあるかもしれませんし、まったく新たな自分を発見することもあるかもしれません。思考を超えた冒険の舞台であると同時に、自分独自の生を描き出し、表現する、果てしなく広大なカンバスでもあるのです。最初は、ちっぽけな自分に気づくことから始まるかもしれませんが、そこから初めて、どこまでもどこまでも拡がって行く可能性がある創造的な道でもあるのです。

 

 この章の末尾にあるKの言葉を引用して終わります。

 

『あなたは自分自身を知れば知るほど、はっきりと物事が見えるようになってきます。自己認識には終りというものがなく、目的を達成することも、結論に達することもないのです。それは果てしのない河のようなものです。それを学び、その中に深く突き進むにつれて、あなたは心の平安を見出してゆきます。自らに課した自己修練によってではなく、自己認識を通して精神が静寂になったとき、そのときにのみ、その静寂と沈黙の中から、真の実在というべきものが誕生しうるのです。またそのときにのみ、無上の至福と創造的行為が生まれます。このような理解も経験もなしに、ただ本を読んだり、講演を聞いたり、宣伝活動をしたりするのは、全く子供じみたことであり、たいして意味のない行為だと私には思えるのです。それに対して、もし自分自身を理解して、そこからあの創造的幸福と、頭脳から生まれたものではない、あのあるものを体験することができるならば、そのときにこそ、私たちの周囲のものとの直接の関係の中に、従って私たちの住んでいる世界の中に、変革をもたらすことができるのです。』(P.26

 

※クリシュナムルティ(以下=K)の思想を理解し、生活の中で実践するためには、そもそも原文であれ、翻訳であれ、テキストそのものに触れるのが一番であることは言うまでもありません。ただし、この極めて非凡な宗教的哲学者の著作に触れる機会がなかったり、その理解に高いハードルを感じる方のために(本メルマガの読者は既に十分に理解されている方も多いと思いますが)、現代の事象や、具体的問題に照らし合わせながら、できるだけ身近な、自分の言葉で解読を続けていきたいと思います。この解読は、あくまでKの思想・哲学を実践することで解放された個人的な体験や、理解、解釈を踏まえてのものですので(あまり脱線しないようには気をつけますが)、興味を持たれた方はKの著作に改めて触れていただければ嬉しく思います。

  

 

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クリシュナムルティ解読1 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

 

    那智タケシ

 

第1章 はじめに あるがままのものを、あるがままに見よ

 

 今回から、クリシュナムルティの『自我の終焉』を自分なりの言葉で解読していってみたいと思います。と言うのも、メンタルヘルスの問題や、ナショナリズム、洗脳的情報、「あるべき」を人に求めさせ続ける常識といった、混乱した現代の様々な事象を省みるに、「あるがまま」をあるがままに見るということから始まる彼の哲学が、それらの問題を解決、解消するにあたって、非常に有効であるように改めて感じられるからです。

 

 クリシュナムルティは一見、難解でとっつきにくく、頭では何となく理解できても、実行することは不可能であるとか、難しいとか、言われて敬遠されることがありますが、決してそうではありません。彼は、非常にシンプルなことを語り続けた人です。それは今すぐにでも、誰にでも実行可能なことです。

 

 ただ、瞬間、瞬間、あるがままの自我の働きをひたすら正確に見つめて、それ(あるがままの働き)以外には何もない(それを観ていて、どうにかしようとしている自我という中核がなく、働きのみがある)ということを知れば、「あるがまま」と「あるべき」の間の矛盾がなくなり、その葛藤によって消費されていたエネルギーのロスがなくなって、「あるがまま」が変容するということです。もしもあなたが「あるがまま」そのものであれば、葛藤は終わってしまうし、終わらざるを得ないのです。それでは、クリシュナムルティの言葉を引用して、解読していきます。

 

『さて、私たち人間はあらゆるものを、あるがままに知ることができないのでしょうか。もし「あるがままに知る」という原点から出発すれば、必ず理解が生まれてくるはずです。あるがままのものを認識し、自覚し、理解することで、心の戦い――葛藤は終わってしまうはずです。

 たとえば、「私は嘘つきであるということを知り、その事実を認めてしまえば、それで葛藤は終わりなのです。あるがままの自分を認めて自覚することが、すでに知恵と理解のはじまりであり、それによって「時間」からも解放されることになるのです。この「時間」というのは、時計の針によって測る時間ではなく、心理的な過程や、精神の働きとしての時間のことです。つまりこうした自分の心の中で作りだされた「時間」を媒介させてものを見ることは、私たちに破壊な作用を及ぼし、混乱を引き起こすことになるのです』

p.56

 

 クリシュナムルティは心理的な時間こそが葛藤の原因であると述べています。実際に私たちの中にある心理的葛藤を見つめてみると、それが事実であることがはっきりと見えてきます。

 

 例えば、将来の不安です。金銭的な問題や、老いの問題、介護の問題、社会において何ものにもなれないのではないか、成功できないのではないか、という自分の未来に対する不安などがあると思います。それは「安定してあるべき」「成功してあるべき」という固定観念が先にあり、それに自分は至れないのではないか、という不安です。

 

 これはさらに突き詰めていくと、「あるがまま」とは別の人間になりたい、「あるべき」人間になりたいという願望であり、「あるがまま」からの逃避です。常に、真実の自分とは別の理想的な自分を想定して、それに「なりゆく」活動の中に身を投じている限り、この「あるべき」と「あるがまま」の乖離から逃れることはできず、その二重性故に、心は葛藤の中にあり続けることになります。成功を追い求める人なら、なおさらです。

 

 仮に一時、「あるべき」自分に近づいたり、それを達成できたとしても、再び次の「あるべき」が生まれ、心は休まることはありません。そうしてこの心理的距離が大きくなればなるほど、人は大きな葛藤を抱え込むことになってしまいます。

 

 現実的に、目標をもって努力することはもちろん良いことですが、それが「別の自分」になるための努力であり、「あるがまま」からの逃避的行為であるとしたら、人の心は休まることはありません。なぜなら、そこには「あるがまま」の真実がないからです。空想や、観念上の自分を追い求め続ける限り、人は「あるがまま」の真実と共にある充足感や、開放感を味わうことができなくなってしまうのです。

 

 実際には、「あるがまま」の真実の元に留まり、それを理解し、矛盾のない生を生きることができれば、そこには大きな変容の可能性が約束されているのです。そしてその変容は、決して社会における成功や、記号的な言葉では置き換えられない、真実と共にあるがゆえの充足感であり、自己肯定感なのです。

 

『あるがままのものを認識し、追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。というのは、あるがままのものは絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そしてもし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、あるがままのものの素早い動きを追わなくなってしまいます。あるがままのものは、決して静的なものではなく、厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。そしてその動きについてゆくには、非常に鋭敏な精神と柔軟な心の働きが必要なのです』(p.67)

 

 あるがままのものと言うのは、常に動いています。非常に複雑で、デリケートな動きをしています。自分の心理的過程や、内面の葛藤の働きを見つめていると、それがはっきりと理解されてくることとと思います。

 

 例えば、人間関係の中で苛立ちを覚えた時に、そこにある働きそれ自体を見つめてみるとします。一見、現象的には、人に不愉快なことをされたり、言われたりしたから苛立ちを覚えた、というところでしょう。しかし、その感情の背景には、実にデリケートな、複雑な心の動きがあるのが見えてきます。

 

 例えば、苛立ちを覚えたのは、プライドが傷つけられたからだとします。そのプライドは、「自分はもっと尊敬されるべき人間なのだ」という「あるべき」の理想的セルフイメージによるものです。けれども、実際の自分はそうではないように扱われた。だからその人は傷ついたのです。その葛藤は、実は、普段から自分の中に存在していたのものでした。あえて見ようとせずに、目を反らし続けていた大きな葛藤です。けれども、それがちょっとした他人の一言で触発され、真実があらわになったが故に、その反動から激しい葛藤を覚えたのです。

 

 その葛藤は、「相手が悪い」という苛立ちに取って代わられます。そうして「自分は悪くない」「相手が鈍感で、理解力がない存在だ」となり、「いつか、自分の存在価値をわからせてやる」という新たな野心、願望が生まれます。そうして「あるべき」と「あるがまま」の距離は再び開き、人は、葛藤に満ちて、傷つけられることを異様に恐れる二重の人生を生き続けることになります。

 

 こうした自我の自己保身的働きから、現代社会に生きる我々は逃れることはできません。様々な人間関係の中で、瞬間、瞬間、ダイナミックに自我は働き続けます。競争社会の中で生きる私たちは、多かれ少なかれ、誰もがこの葛藤から逃れることはできないのです。その働き、変化を、あるがままに、刻一刻と見つめることが、クリシュナムルティの言う瞑想です。それはつまり、本当の自分自身の姿を知るということなのです。

 

 このプロセスを観ていくと、「本当の自分自身」というのは、決して、「理想の自分」ではないというのは明白だと理解されることと思います。つまり、本当の自分とは、この一連の自我の働きそのもののことです。

 

 人間関係の中で自分を守ろうと思い、傷つき、それを回避するために相手を非難し、再び「あるべき」の防壁を張り巡らそうと思考の防波堤を作り出す自我の働きそのものが「あなた」です。その働きと別の「本当の自分」や「理想の自分」があるわけではないのです。瞬間、瞬間における関係性の働き、それがあなたの本質であり、真実です。それが「あるがまま」のものです。

 

 ですから、その働きを直視し、それが卑小であっても、卑屈であっても、弱くあっても、その働きがそのまま自分自身の真実であると認めてしまえば、そこに二重性はありません。「あるがまま」のものしかありません。

 

「そんなに卑屈で、ずる賢く、弱くて、情けない自分が真実の自分だなんて見たくないし、認めたくない、そのどこに救いがあるのか?」と思う方もいるかもしれません。

 

 けれども、その真実から目を反らさずに、その働き自体が我であることを認めてしまえば、そこには、ある静けさが生まれるのが感じ取れるはずです。それは「あるべき」と「あるがまま」の二重性がないがゆえの静けさです。「理想」と「現実」の乖離がないが故の静謐であり、真実と共にあるが故の静けさです。

 

 その落ち着き、静けさの中に、「あるがまま」を変容するエネルギーが宿る可能性があるのです。ですから、もしも本当に自分を変容させたいと思うのならば、「あるべき」を求めて「あるがまま」から逃避を続けるのではなく、「あるがまま」を理解し、そこに留まるという自己認識の道こそが最短であり、「あるがまま」を変容させてあなたを次のステップに運ぶ、最も確かな土台になるのだということです。

 

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MUGA 第94

「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

 

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◆目次

 

◇詩

 

 那辺の詩     那智タケシ

 

◇哲学

 

クリシュナムルティ解読12 テキスト『自我の終焉』(篠崎書林)

 

    那智タケシ

 

12章 受動的な凝視

     もし「私」が「あなた」を理解したいと思うなら

     「私」は受動的に見詰めていなければならない

     そうすると「あなた」の方で

     自然にあなたの素姓を語りかけてくるものなのである

     受動性――それは怠惰や眠りではなく

     極度に研ぎ澄まされた鋭敏さである

 

◇エッセイ

 

MUGA的に見る新天皇

 

高橋ヒロヤス

 

◇編集会議

 

美しいものも、醜いものも、客観的に見る眼差し

 

 

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