せめて、真崎らしく。 -7ページ目

せめて、真崎らしく。

そんな感じです。




「不登校の子と1番最初に関わることになった時、会社の人に「不登校の子と関わる時に気をつけること」として言われたことが




・「勉強」という言葉を使わない

・「学校」という言葉を使わない






いざその子と初めて顔を合わせた時に
挨拶の直後その子に言われたことが




『本当は学校に行って勉強したいんです』


 


いきなり"NGワード"両方とも言われましたからね。笑」






先週の土曜日のセミナー

上司が自己紹介の時にお話されたこと



笑い話テイストではあったけど


つまるところ
なにがおっしゃりたかったのかというところは、なんとなく伝わる







「不登校支援」


と呼ばれる業界に来てから
2つの組織に身を置かせてもらったけど

そのスタンスは正反対で




「その不登校を短期復学に導く」

「不登校でもイイじゃん」




「まずは一言一句マニュアル通りに話せるようになることから」

「マニュアルをつくることにそもそも無理がある」













リストカット






・傷があってもこっちから話題に出してはいけない

・「やめなよ」と言ってはいけない

・話してもらったら「話してくれてありがとう」と言う



それぞれ聞いた場面は違うけど
そういうのを聞いていて






例えば先日
リスカしてる子に対して



・これ痛そうやで。大丈夫なん?

・痛いやん。やめときよ。←痛い推し



って自分が言ったことはマニュアル違反で

この文章も見る人が見たら「ありえへん」と思うんかなって

その日の帰りにふと思った




前提として「それを話せる関係性」ができている肌感覚があったってのはあるけど



その後その子が
 


「逆にそれくらいズケズケ聞いてくれた方がいいです笑。基本的に腫れ物触るみたいに関わられますけど逆に気まずいですし笑。」



ってことを言うてて

はーその子はそう感じるんやーとぼんやり思った記憶がある







これまた「不登校」でくくると
そこでまたギャップが生じるので


「私が出会ってきた不登校(特に経験者)で当時の話を伺ったことがある人たちの多く」



という風に言うと




その人たちは
個人的に気持ち良いひねくれ方、というか鋭い感性を持ってるなーって感じることが多くて




「当時の大人の関わり方とか言葉かけがすごく"マニュアル"っぽくて、「ああ、こういう風に言うことになってるんだな」と思ってすごく冷めて、適当に分かったフリしたり完全に無視したりしてました。」






これは不登校とか不登校支援どっちゃら抜きにして



自分自身がすごく「テンプレ」的な言葉がけをされることに対して



「自分の言葉で喋ってよ」

って突っかかったり



「なんかすごいこころの距離感感じるわ」

って哀愁漂わせてみたり(めんどくさい)




つまりはまあ「嫌だ」とか「「その人」と話したい」って感じることが多かったから、その経験者の方々の言葉にはとても共感させてもらった




「相手が自分のつらい経験を話してくれているときは涙を流せたらベスト」

 
というマニュアル見て
びっくりしたこともある


嫌ですー無理ですーって嘆いてた
 

自分が逆の立場なら
マニュアル通りの涙で同情されるとか屈辱




なんでも自分に起因させるのは
それはそれであかんけど



でも、それはなんぼ言われても、ない






 
個人的には

人との関わりにおいて





マニュアルがあかん


マニュアル化は無理





というよりも












マニュアルでこられたら、なんか寂しい











あ、これや


今書きながらストンと落ちた







横浜駅着いた


トイレ寄っていこ!(常連)



真崎





「空気が読めない」




KYなんてゆー俗語が生まれるくらい
「人に対する批判」の中でもベテラン風吹かせてる


最近では「空気を読み過ぎる人は○○できない」的な記事もよく見かける気がする



それだけ「空気を読む」ということに対してまあいろんな人の考えがあるわけだけど







「人は違う」



っていう至極至極当たり前の前提を知らなかった大学2年生の私は、体育館の中で漂う「空気」に耐えられなくて


ある人に突っかかった





「今のこの団体の「空気」に苦しいって「感じて」そうな人らに対してもっとこっちはもっと配慮していかなアカンのちゃうん?そういうのって、その人の出す「雰囲気」とか「顔見てたら分かる」やん?」








こんな訳分からん要望に
その人は向き合ってくれて

 

数日後に言われた




「ごめん、真崎に言われたこと意識してたんやけど、全然分からんかった。」








何様ですのーん、だけど



相手に対する批判とかそういうのではなく

本当に素直な感想
あるいはちょっとした気付きと感動として自分の中で湧き上がってきたのは





「そっか。分からないのか。そっか。」



だったわけで




確かその時よく分からんけど
相手に「ごめん」って言った気がする







自分のことが「空気の読める人」と言いたいのではなくて




基本的に自分は


「雰囲気」とか
「空気感」とか
「表情」とか
「声色」とか
あとは「感覚」


そういう非言語ベースなところを大切に他人とのコミュニケーションをとることを、どの時点からか自分のスタンダードにしてきた





且つ



みんなそうだと思ってた

ほんと純粋に、なんの疑いもなく


 


実際それが自分の特別なスキルとかじゃなくて、そういう人がなんかきっと多い気はしてて


だからわざわざ相対的に「空気読めない」なんて批判する言葉が出てくるんだと思う
  


「なんで分からないかな」

つって




これは私の話だけど


非言語的な「感覚ベース」に頼りすぎてきた功罪なのか


言語ベースのコミュニケーション
「言葉できちんと事実や自分の考えを伝える」ことは、いまとても苦手
つまづきまくってる





「んーなんとなくやから上手く言えへんねんけど。」

「いや、分かる、分かるよ。」


そんなコミュニケーションを成り立たせてもらってきた




思ったことや違和感に感じたことがあってもやもやしたときは

言葉でそれを伝えようとせずに、それこそ「空気感を醸す」を使って、誰かに気付いてもらうのを待っていたりした







最近は「発達障害」という言葉が
言い方悪いけど「空前の大ブーム」みたいな感じで飛び交いすぎてるような気がしてるんだけど


ADHDの特徴のひとつに
「空気が読めない」というのがあると本で読んで



それを「障害」とすることに
個人的には抵抗はあるんだけど

だけどいろんな生徒と関わる上で
非言語コミュニケーションがスタンダードではない子はたくさんいる



子どもに限った話じゃなかった

子どもとか大人とかじゃなくて


「人は違う」わけだから
コミュニケーションの取り方にはそれぞれのスタイルや得意とするものがあって



 


「空気が読めない」


という批判の無意味感を思う








「言葉じゃない」



なんて綺麗なキャッチコピーで勝手に完結してる場合ではなくて









「言葉だよ」



という状況や関係性があることを

改めてこころに留めて






1週間、スタートーぅ




真崎



女子でまとめると誤解を生むかもしれないけど、この業界にいて出会うのが現在時点で8割方女子なので、まだ男子の統計取れてないんです


あと「感受性女子」っていうゴロが好きで









感受性女子




受け取りすぎるひと


こころ剥き出しで傷つきやすいひと


違和感に過剰反応するひと


対人関係において人一倍疲れを感じるひと


なにもないけどとりあえず「なんか生きづらい」ひと




の、女子ver.








かくなる私も、相手の眉毛の動きひとつで「あ、やばい今なんか不快なこと言うてしもたかもあわあわ」てお腹痛くなるタイプ(≒被害妄想女子)


事実解釈判断つけずに勝手にいっぱい受け取ってバンジージャンプみたいな精神的アップダウンを日々繰り返してる






そこに対して




「めんどくさい」

「被害妄想」

「ネガティブ」

「かまってちゃん」







という言葉をもらうこともよくあるけど


それ以上に




「感受性が豊か」

「気付けるひと」




みたいな肯定的言葉をぬくぬくとかけてくれる人たちが周りに多かったおかげで


このめんどくさい性格をギリ肯定的に受け入れながら生きることができてる



と、思う




いろんなことが紙一重だった

環境要因ってほんと大きいや









本題




とはいえ、やっぱりどこか生きづらそうな感受性女子の存在がとてもとても多いなと思う


いっぱい受け取るよ
剥き出しだもの(むつを)






且つ、そこに環境要因が重なれば



「自分は誰にも必要とされていない」

「自分は存在する価値がない」



となることは、個人的には至極自然なこころの動きだと思う






 



最近おもう




「感受性女子の世間的ニーズは高い」







説明





歌手

小説家

詩人

女優
 
とか




その中にも感受性女子はたくさんいると思うんだけど


その人たちが紡ぎ出す言葉や作品って、なかなか強い共感を生み出してる






それは、そうだと思う




自分の所感だけで、これだけ周りに感受性女子、生きづらい系人類が多いもん


世の中には凄まじい数のそんな感じの方々がいるんじゃないかと思う


そうじゃなくても、誰しもなんかどっかしら悩んで病んで時に絶望してってくらいが逆に自然なのかなとも思うくらい






そんな時に、前向きポジティブきらきらベイベみたいな眩しいものは、どうもこころのフィルターを通過させていただけず



逆に、多少ときに相当後ろ向きで生きづらさ全開の誰かの言葉が、スッとこころに入って来てそこで共感できたりときにちょっと救われたような気持ちになったりする






「毎日がとても楽しくて人生が輝いています☆」


という言葉に気持ちが明るくなる人もいれば




「日々がつらくて毎日多少消えたいと思いながらも生きてきたら気付けばここまで来てて自分よく頑張りました」


という言葉になんだか励まされる人もいる






「夢や目標が日々を豊かにして「自分の人生」を生きる糧になる!!」


もあれば




「人生はとても退屈で絶望的なものだから、夢とか目標でもなかったらやってられなくない?」


もある(下田美咲さんの本から拝借)







正解はないけど

合う合わない、好き嫌いはあって





分かりやすく「生きやすい」という言葉を使うけど



「生きやすい」ひとや言葉や作品ばかりじゃ、きっと気持ちの行き場をなくしてしまう人もいるって思う






自分が感じてきた生きづらさ、それを紡いで表現したもの、ときにはそのひとの存在そのものに、ちょっとこころ救われてるひと




たぶん、すげーいる 


(当初比)








文脈繋がってるか分からないけど




だから




「感受性女子の世間的ニーズは高い」




という結論に至りました


男子ごめん、統計不足で







だから




悩める感受性女子の

 

「自分はこの世に必要ないのでは」



という仮説は


(かなり苦しい論理展開により)
真崎が論破しました








ある、ある



わりと、ある






なかったところで
生きてちゃいけない理由にはならないけど






とりあえず



わりと、ある








生きやすい方がそりゃなにかといいだろけど



無理にそうなる必要もないかと思う







ので







そんな感じで




今日も多少なにかに絶望しながら

それでも生きてほしいです




真崎