「空気が読めない」
KYなんてゆー俗語が生まれるくらい
「人に対する批判」の中でもベテラン風吹かせてる
最近では「空気を読み過ぎる人は○○できない」的な記事もよく見かける気がする
それだけ「空気を読む」ということに対してまあいろんな人の考えがあるわけだけど
「人は違う」
っていう至極至極当たり前の前提を知らなかった大学2年生の私は、体育館の中で漂う「空気」に耐えられなくて
ある人に突っかかった
「今のこの団体の「空気」に苦しいって「感じて」そうな人らに対してもっとこっちはもっと配慮していかなアカンのちゃうん?そういうのって、その人の出す「雰囲気」とか「顔見てたら分かる」やん?」
こんな訳分からん要望に
その人は向き合ってくれて
数日後に言われた
「ごめん、真崎に言われたこと意識してたんやけど、全然分からんかった。」
何様ですのーん、だけど
相手に対する批判とかそういうのではなく
本当に素直な感想
あるいはちょっとした気付きと感動として自分の中で湧き上がってきたのは
「そっか。分からないのか。そっか。」
だったわけで
確かその時よく分からんけど
相手に「ごめん」って言った気がする
自分のことが「空気の読める人」と言いたいのではなくて
基本的に自分は
「雰囲気」とか
「空気感」とか
「表情」とか
「声色」とか
あとは「感覚」
そういう非言語ベースなところを大切に他人とのコミュニケーションをとることを、どの時点からか自分のスタンダードにしてきた
且つ
みんなそうだと思ってた
ほんと純粋に、なんの疑いもなく
実際それが自分の特別なスキルとかじゃなくて、そういう人がなんかきっと多い気はしてて
だからわざわざ相対的に「空気読めない」なんて批判する言葉が出てくるんだと思う
「なんで分からないかな」
つって
これは私の話だけど
非言語的な「感覚ベース」に頼りすぎてきた功罪なのか
言語ベースのコミュニケーション
「言葉できちんと事実や自分の考えを伝える」ことは、いまとても苦手
つまづきまくってる
「んーなんとなくやから上手く言えへんねんけど。」
「いや、分かる、分かるよ。」
そんなコミュニケーションを成り立たせてもらってきた
思ったことや違和感に感じたことがあってもやもやしたときは
言葉でそれを伝えようとせずに、それこそ「空気感を醸す」を使って、誰かに気付いてもらうのを待っていたりした
最近は「発達障害」という言葉が
言い方悪いけど「空前の大ブーム」みたいな感じで飛び交いすぎてるような気がしてるんだけど
ADHDの特徴のひとつに
「空気が読めない」というのがあると本で読んで
それを「障害」とすることに
個人的には抵抗はあるんだけど
だけどいろんな生徒と関わる上で
非言語コミュニケーションがスタンダードではない子はたくさんいる
子どもに限った話じゃなかった
子どもとか大人とかじゃなくて
「人は違う」わけだから
コミュニケーションの取り方にはそれぞれのスタイルや得意とするものがあって
「空気が読めない」
という批判の無意味感を思う
「言葉じゃない」
なんて綺麗なキャッチコピーで勝手に完結してる場合ではなくて
「言葉だよ」
という状況や関係性があることを
改めてこころに留めて
1週間、スタートーぅ
真崎