ネットでは、いろいろな意見を目にすることが出来る。もちろん、その気になって、情報を取りにいかなければならないが。そうすると、一つの情報だけに頼っている(例えば新聞を一紙しか購読していないとか)ことが、如何に危ない自体であるかが、よくわかる。これは今までも言われてきたが、毎日、図書館でも通わない限り、複数の新聞を目にするなどということは、財布が許さなかった。しかし、今はネットにより、多くの新聞を、断片的にではあるが、読むことが出来る。また、マスコミ以外の多様な意見を目にすることが出来る。しかも、総合すると、どうも、マスコミによっては、視点が一方的ではないか、と思えるものも多い。

 一体、マスコミの存在意義とは何だろうか。もちろん、事実を正確に伝えること、はある。しかし、これは、意外と難しい。どうしても見る人の主観が入ってしまう。主観を排除することは事実上出来ないから、割り引いて考える必要がある。もっとも、我が国のマスコミは、何故か、絶対に客観的というスタンスを取っているが。また、社会の木鐸と称していたことがあった。これは、人びとに警鐘を鳴らす存在という意味で使われる。

 しかし、どうも最近のマスコミは、社会の木鐸足りえているのだろうか。マスコミは、権力に対抗してこそ価値があるのではないだろうか。権力者は強い。情報発信力もある。それに対して、権力者に支配を受ける側は弱い。もちろん、民主主義の下では、権力者は、支配を受ける側からの審判を選挙という形で受ける。しかし、昨今の選挙違憲判決を見るまでもなく、権力者は、選挙制度に関してさえ、恣意的に操れるのである。
 そこで、登場するのがマスコミである。マスコミは、権力者に負けず劣らずの情報発信力がある。それを駆使してこそ、権力を監視できるというものだ。したがって、常に権力に対して抵抗勢力であって良いのだ。それがために首尾一貫しなかったとしても。例えば、政党Aと政党Bがあり、両者は180度異なる政策を掲げていたとする。マスコミは、政党Aが権力の座にあるときは、Aの政策を批判(結果として政党Bを支持)し、政党Bに権力の座が移ったとたん政党Aの政策を支持で良いのだ。何故なら、どんな良い政策でも、複雑な現代社会では、メリットもあればデメリットもある。そうした中で、忘れられがちなデメリットを強調することが、よりよい政策の遂行となるからだ。

 今から10年ほど前。構造改革を掲げ、なんでも二分し、自分と意見の違う者は、全て「抵抗勢力」とレッテルを貼り、排除していった権力者がいた。彼は、構造改革が成し遂げられれば、「素晴らしい世の中になる」と言ったが、誰にとって素晴らしいのか、具体的にはどのように素晴らしいのか、は、ついに語らず終いだった。当時のマスコミは、それでも、こぞって構造改革を賞賛した。その結果、格差社会が進行していった。当時、格差社会が進行することは、一部から言われていたが、大きく取り上げられることはなかった。