[でも、僕は思う。
道徳的説得が通じないのは、じつは少しも驚くべきことでは
ないのではあるまいか。
真剣な道徳的説得は必ずひとの心をとらえるはずだというのは、
いつかどこかで(ある目的のために)つくられた
<うそ>ではあるまいか、と。
その<うそ>がいつどのようにしてつくられたかについては、
この本でも論じる機会があるだろう。
重要なことは、この<うそ>を信じている人は、それを信じていない人に
対して無力であり、せいぜいのところ、ただ「軽蔑」とか「侮蔑」という武器で
対処できるだけだ、ということだ。
よき教師たらんとするなら、この<うそ>を信じ込むのでなく、
うそと知りつつときに応じて利用できるだけの力量を身につけなければならない、
と僕は思う(このあたりになるともう、<子ども>の哲学どころか、
それを経由して到達したかなり高度な<大人>の哲学なんだけど)。」
これは、永井均さんの『<子ども>のための哲学』の一節。
この道徳的説得の部分を正論って言葉に置き換えると、ちょっと
見えてくるものがあるって思った。
この間お話した方は
「昔、食事は家族で同じものと分け合って食べていた。
今は家族ひとりひとり食べたいものを食べている家庭が多い」
っておっしゃっていたのね。
我が家も娘達が摂食障害になるまでは、同じものを分け合って
食べていたな。
でも、ある時からは、同じものどころか、一緒に食卓にもつけなく
なってしまった。
一緒に食卓につけない娘を前に私は、
真剣な道徳的説得=正論は必ずひとの心をとらえるはずだと思って、
一生懸命娘に
一緒に食事する事の大切さ
食べ物を大切にする事
なんかを言っていた。
真剣な道徳的説得=正論は、いつかどこかで(ある目的のために)
つくられた<うそ>かもしれない・・・
なんて思ったら、ちょっとは私の心も楽だったのに・・・なんて思う。
真剣な道徳的説得=正論は必ずひとの心をとらえるはずだという
<うそ>を信じている人は、それを信じていない人に
対して無力であり、せいぜいのところ、ただ「軽蔑」とか「侮蔑」という
武器で対処できるだけだ。
って、まさにその通り。
私は娘に対して「軽蔑」とか「侮蔑」はしなかったと思うけれど、
「脅し」という武器は使っていたと思う。
「こんな痩せていたら将来困った事にあるよ」
なんてね。
よき親たらんとするなら、この<うそ>を信じ込むのでなく、
うそと知りつつときに応じて利用できるだけの力量を身に
つけなければならない
のよね。
それにはある程度、摂食障害という病を理解すること。
私自身の心に余裕を持つ事。
人生に起こるいろいろな事を受け入れていく事。
そしたら、力量が身につくかもしれないな。
「こうしてね」
3匹のねこニャンにご飯あげた後、
カッコよくて、素直で、みんなに愛されていた