昨日ガラにもなくDVD借りに行ったら、目当ての「ドーンオブザデッド」と「スターシップトゥルーパーズ」、「あらしのよるに」も「耳をすませば」もなくて我が人生最大の苦悩を味わった。結局「東京ゴッドファーザーズ」「ムーランルージュ」「アメリカンギャングスター」借りたんすけど、前2つとも内容が濃くて満足やった。
ナチュラルボーンワル。ノウティバイネイチャーの僕的にはアメリカンギャングスターに期待を寄せてるんやけど、昨日観たムーランルージュは期待値K点越えで、恋愛映画苦手な僕でも嫌なとこ一個しかなかった。

冒頭、劇場で色んな色のドレス来た娼婦たちが踊るシーンがあるんだけども、その時使われてる曲がニルヴァーナの「スメルズライクティーンスピリット」とM1でお馴染みの「because we can」、それからリルキムとビヨンセが歌ってる「レディ・マーマレイド」の3曲をミックスした曲で、映像と音楽のカオスが調和してるのに感動して思わず「「「うおー!」」」つって一緒に観てた猫の頭わしゃーってやったら頭突きされた。そのシーンはマジにドラッギーでトリッピーな映像で、人の骨格とかを意識して見ることができずに、色とその輪郭の動きを見ながら音楽を楽しむって感じでしたわ。
あとクイーンのショウマストゴーオンをミュージカル調で歌ってたのもナカナカ乙でした。
ストーリーの方も場当たり的な強姦とか人死になんかはなく、娼婦をフォーカスしてるけどNHK並の健全さだったから嫌な思いもしないで済んだ。いやむしろはじめの方で敵役の公爵とムーランルージュの座長を絶対こいつ悪い奴やで!とおもてたのに、結びはホンマはエエ奴エンドでしたので、期せずして僕の心のきちゃならしさを思い知りました。ノウティーバイネイチャー、いやドーティーバイネイチャー。
作品の中で重要なセリフが「人がこの世で知る最高の幸せ、それは誰かを愛し、そしてその人から愛されること」というもので、なんかもうそうやねって感じでした。そうだね!プロテインだね!って感じでした。そりゃさあ!そりゃさあ!なあ?なあ?せやろ?ん?わかるやろ?ドウテイバイネイチャー。

この妬み嫉みを抱いて今からデンワシ(デンゼル・ワシントン)のサグライフを楽しみたいと思います。
フランシスマカンバーの短い幸福な生涯について。

ヘミングウェイの短編はいつ読んでも関心するものがあるんだけれど
フランシスマカンバーは数あるヘミングウェイの短編の中でも最もと言っていいくらい。
そのくらい面白い。
カミュは哲学をしたい人間は小説を書けばいいと言ったらしいが
小説はそもそも哲学の発露じゃないのかな。

この作品はヘミングウェイのハードボイルドな人生観だったり性の無意味感が表れてる。
どうでもいいけど、最近アイデンティティを軽視してるような発言だったり
アイデンティティ(笑)みたいな態度に遭遇するんだが、やるせなさったらないよホントに。

ヘミングウェイは男らしさを追求していたんだと思う。何だかで読んだが
戦争を経験してない人は信用しなかっただったり(自身は数ヶ月しか従軍してないが
酒や狩猟や釣りに精通してたりで、アメリカのマッチョ思想そのものと言ってもいい。
流石ヘミングウェイパパと言われるくらいにアメリカ人が尊敬するわけだね。
日本で言うと清水の次郎長親分的な方なのかしら。

作中でフランシスとその妻。フランシスとライオン。という対立がある。
フランシスは妻の容姿を、妻はフランシスの財産をという愛も糞もない夫婦であるが
妻はガイドとしっぽりっていう淫売にも関わらず、臆病なフランシスはそれについて
妻に何もいう事が出来ない。
ライオンを狩るという場において、妻はガイドのマッチョっぷりに熱視線。
方やフランシスはライオンを目にして一人逃げ出すというていたらく。
フランシス自身の臆病が起因しているのは目に見えてるが
アイデンティティ男としてこれ程の屈辱はないであろう。

私的に男と女という対立は性別を持って生まれる限り避けれない命題だと思う。
どちらが優れてるか。であったり重要性であったり誰しも自分の性を
優位に置きたがるものである。アイデンティティを否定されたならそりゃ怒る。
ヘミングウェイは男であるから男を肯定する事に小説を用いてたのではないかと考えた。
フランシスは作中で益荒男へと変身を遂げて範馬刃牙もびっくりの超雄へと成り上がるのだが
漫画オタクとしてはこれは古典だなーと思うわけ。小早川セナくんですかと
映画ののび太くんですかと。そう思うわけです。

私が考えるに、こうやって男を肯定する事をハードボイルドと言うんだが
コレを書く事は大概男という自意識とその肯定からくるものだと思う。
その間違いというのは更に大きな人間という自意識を否定している事である。
大抵ハードボイルドって女性が蔑視されてたり無下に扱われてるんだが
性よりも更に大事なものがあるでしょ!と私は読みながら思う。

自分の経験からすると、男と女特に人間だと大きな隔たりがある。
魚とか虫はそもそも大きさにかなり差があったりするけども
人間は思考にかなり差がある。つうか差を感じ得ずには成り立たないので生物は。
性を越えた種を肯定するのはなかなかむつかしいのかもしれない。
落ちを見るに、ヘミングウェイも実は男を肯定するよりも性を越えたとこに
意味を見いだせるのではないかと考えてたんじゃないかなあ。
人との距離感の解決として、相手によって付き合い方に差異ができてしまう事が問題だと考える。
仲がいい。という状態が距離の解決だと思うが、そこへ至る道として疑問であるのが
順位が出来てしまうことだと思う。

「仲のいい状態」はある境界を越えた所にあるのだけれど、境界のこっちにしろ向こうにしろ
その範囲に点在する対人関係の中で、誰かと相対したとして
最も仲のいい人を感じざるを得ない状況に遭遇する事が多い。
気を遣う。であったり、特に笑わないといけない場面に遭遇する度に
一番仲のいい人達とその他の人との差異を感じる。

特に笑わないといけない。というのは辛い。
恐らく僕の体力はこの行為によって最も消耗されている。
しかしそれは「その他の人」を「最も仲のいい人」へと押し上げる努力であって
嫌われない様にという努力でもあるからかなり効率いい気がするんだけど
僕の様にあらゆる事象に脊髄反射で笑ってしまう様になったらもう駄目。

最も仲のいい人といると沈黙でいてもむしろ心地いいくらいなんだが
その状態は何があろうとほぼ相手が自分を自分が相手を「嫌う」事態には発展しない為
ちょっと烈しいくらいの安心感があってしまう。これはこれで問題だと思うが。

でもとにかくその他の人を最も~の状態へ押しやる為の努力は無駄ではない。
何故なら群れや社会を維持する事が群生動物の本能であれ目的であれなんであれ
実際に僕らは人との繋がりを放棄することに害はあれど維持することに害はない。
一見最も~の状態でなくともいい様に思うが、交友関係に順位がある限り
上位の群れは崩れ難く、それは人の本能の方向性として正しい。

僕が思うに、社会というのは肥大化する傾向にあって、他の社会との牽制だとか
自尊心だとか愛国心だとか自分のアイデンティティを固守する事だとか
それらに起因して大きくなることを望んでいる気がする。つうかそうだ間違いない。
すると僕が求めている例の最も~は間違っているのかという事になるが
それは違う。大きく固くあることが一番望ましい。そう、マイサンのように。
ここまで講釈垂れてなんだが、極端はだめだって事だね。両方を持っている必要がある。
よって人間はあの悪魔的な安堵感を求めて軽薄にも人と接することを行う。

僕が幸運なのは狭い範囲で固くこの十年間を過ごしてきたことで
今となってはどう足掻こうがあの数人の連中との社会は崩れない。
快楽主義者は一見考えなしに快楽を貪っているかのように映るが
内実はエピクロス派の様にストア派と同様その哲学は深い。

僕ら、少なくとも僕はストア派的な理念で軽く硬派に今ある関係性を築いたように思う。
他の人間が僕によってこなかったっていう事実は置いといて。
恐らく普通の人達は小中高大そして社会へと上がるにつれて
交友関係を増し、付き合う友人を変えていく。
それで、中にはやっぱり高校の友人が一番仲がいいだったり
大学の友人が一番仲がいいだったりある。というかそんな話を聞く。
これは僕らみたくやっぱりあの不健康な安堵感の共有だと思う。
いいなあと思う。僕はもう若干諦めつつあるけれど
普通の方達は二つとも持ってるんだもんなあ

「仲のいい人の順位」の問題は方法としては先ず交友関係を広げる事
次に深く付き合うこと。このステップを踏むことによって
順位をつけつつも、無差別的に一様な距離感を形成できるのだと考える。
逆を辿ると最も~以外の方達と接することに疲労してしまうんだろうな多分。
社会ってよくできてるんやなあ。
多くの人と付き合うっていう器用な真似はできないからどちらにしろ無理だったように思うが
今の僕は交友関係を広げるチャンスに立っているので、出来うるならばと思う。


「仲のいい」という事はやはり哲学を知り、知られていることだと思う。
人は哲学大系をそのまま披露することはしないが、つうか意識ない人もいるけど
趣味や好き嫌いによってそれらを部分的にちらつかせてる。
いいとか悪いとか自分の価値判断がどっちであれそれを知っておく。そんでそれに合わせる。
これがあの距離感のサノバビッチをこらしめる方法だ。そうであってほしい。
やっぱりヘラヘラ笑ってないとだめってことだ。
人並みになりたい。