近頃いろんな映画を見てるんやけど、スラムドッグミリオネアはなかなかよかった。
M.I.A.のpaper planeが使われてて、あの歌詞とインドのスラムの日常っていうのは、アメリカだとか先進国のゲットーとはまた違ったプロレタリアの闘争を想起させる。
あんまりいろんな事を考えないですむ、感覚的に面白いタイプの映画で、アクション映画みたくその場その場で起こるちょっとした出来事に注視せざるを得ないから、映画が終わった後には何も残らないけれど、さほど意味もない場当たり的なシナリオで進むアクションに対し、スラムドッグミリオネアはその場その場の出来事が全て集約して映画の最後へ収束する。という点が評価されるのではないでしょうか。

ひとつだけ残念な点があって、それはインド映画ではおなじみなんだろうが、エンドロールで役者全員が踊りだすんだな。こういう伝統は大事なのかもしれないが、不変というのは罪だなと思う。緊迫した映画を見終わった後に、修羅場を潜った主人公とヒロインが笑顔でわけのわからん踊りを舞うなんてのは、はっきり言って台無しと言わざるを得ない。マジ台無し。

あとグランブルーね。これこそ映画だと、これが映画の中の映画だと思った。
心に残る映画ってあんまりなくて、量的な問題もあるんだろうけれど、小説や漫画みたくなんか頭の片隅に引っかかってる。だとかいう映画はない。
今でも映画は文章や絵より劣ってると思っているわけだが、それはなんか視点を固定されてしまうところに、何か解釈を強要されてる感があるからだね。
つまり僕らが見ているのは登場人物を見てるカメラであるからして、何か彼らの心だとかになかなか到達しづらい。人物をどう捉えたか。という第三者を観てる感じがあんまり合わないんだな多分。

グランブルーはとにかく主役の演技力が半端じゃない。名前すら思い出せない僕はやっぱりアホなんだけれど、彼は今まで見た役者の中で一番かもしれんなマジで。
主役のマイヨールがヒロインのジョアンナにコーヒーを渡して、しばらくここに滞在するのか?と聞くシーンがあって、ジョアンナはいやすぐアメリカにもどるよ。と伝えるんだけれど、その時のマイヨールの微笑み。この演技で映画の世界に引き込まれたわけだが、その後のマイヨールのキチガイっぷりやジョアンナのマイヨールに対する苛立ち、ジャンレノの魅力だとか、やっぱり調和してて最後のフェードアウトまで気持ちよかった。つうか最後のフェードアウトがあまりにも完璧すぎてこみ上げてくるものがありましたわ。
結局人物の中に入って彼らの気持ちだとかを共有するの事はできなかったんだけれども、圧倒的な演技力ってのはカメラの視点に視聴者を立たせるのだなと。そこに至ると人物との距離が狭まって、より彼奴らを感じる事ができる。映画っていいですね。うるせー
呼吸には、空気を吸ってもはいてもない状態があって、僕らはその時死んでる状態にもあり、そこに生と死がある。という禅宗の言葉をキリスト教学の授業でセンセが仰ってた。そのセンセーは身の上話ばっかりするからすっげえ胡散臭いと思ってたんだが、生と死っていう体験を通して話すことで、より宗教的な事を伝えてるんやな。と思うことにした。下手に自分の信仰する宗教の事語るより、その方がより神父とか牧師とか坊主っぽい。

この前話した通り最早生と死だとかいうフィフスエレメント並に壮大なテーマなんて考える機会は少ないけれども、やっぱり十年以上考えてるにも関わらず論理的な答えが浮かばないのは歯がゆい。
僕は反射的に死にたくないしそれは本能だけれど、理性がそれを邪魔して自殺だとかいう答えをだしてしまう。自殺は論理的に正しいと言えるから厄介なんだが、それより更に本能が先行して死にたくない。っていう無限の矛盾に陥る。
対自かつ即自ってそういうことなんかな。やっぱり誰でもわかるように論理に還元しないとダメだ。
つまりカミュ死ねとカミュ死んでろよと意地っ張りめ
性急を要する逼迫した問題とは生に関する事柄で、つまるところ生きることに価値を見出せるか。この問いの答えを見つける事、その必然性は「選択」にある。

選択とは、我々が時間に身を置く限り不断をもって請求され続ける。どこかへ向かい歩くこと、寝ること、究極的には生きること自体選択である。
選択は我々の所作に対して正当性を要求している。そう言い切る事ができるのは、自暴自棄である人が欲求して間違いを犯そうとする事すら欲求に従う彼の正しさがあるからだ。
選択をする主体は無意識に前提を肯定している。そこに生の価値、その問いの性急さが表れている。

前提とはつまり赤信号を渡らぬ(選択)理由となるモノの正当性を認めることと言える。
赤信号はルールに従い渡ることが許されない。その前提とはルールに従う事の正当性。また例えばルールに従う事の正当性が秩序を維持することであるなら、その正当性を肯定することもまた前提となる。
選択とはこうしてマトリョーシカの様に前提の箱を開けていく作業なわけだが、最後の箱の蓋を開けるとそこにある問いは生きることに価値はあるか。である。そこには存在論的な我々が真であるか、また形而上的問いの数々が含まれている。生の価値という問いは様々な答えを論証することによってその解答が得られる。それ故に生の価値の前提の前提というそれまで下ってきた問いの連続はそこに至ってようやく終わりを迎えるのである。
何故生の価値だけその様な問いの形態をとるのか。

選択への自問は形而上のアイデンティティと言っても過言ではなく、我々が日本人であることや学生であることと同様に、生活に与える影響は大きく、恐らく自分とは何か。といった抽象的な問いが要求する答えにもなり得る。現在時で生を享受する者にとっての自己が、生になんらかの価値を見出している事を思えば(生に価値が見出せない人物が生を享受している事は矛盾している)例の自問の連続と帰結への解答はそのまま私が生きることを肯定している事(無意識的にも)と同義であるいえる。つまり僕がここで言いたい事というのは、選択することは生の価値を前提としているということである。

話は逸れるが、選択はかなり無意識的なものであるから、あらかじめ準備をしておく必要がある。無意識的というのは誰もが赤信号では歩みを止める事。その作業的な行程は僕自身いちいち「あ、赤信号だ。ルールだから歩くのやめよう」などとは考えないように、更にその前提といった事柄までは意識しない。故に選択の正当性、その前提の肯定。という事が選択への自問を完了していない人にとっても了承されてしまっていて、生の価値に対しても彼彼女は無意識の内に肯定してしまっている。ここで問題なのは彼彼女の形而上的アイデンティティが、生の価値を肯定しているか、もしくはその先の何らかの前提その正当性の肯定が意に沿うものなのかだ。整合性の取れていない前提や肯定があるならば、あらゆる選択はかびゅうてきに陥る。準備をしておく事は必須である。
形而上のアイデンティティと言ったのは、何か他に言葉を思いつかなかったからで、多分なんかそういう言葉はあるだろうし、そのままアイデンティティと言ってもいいのかもしれない。

生の価値とはなんだろう。首に紐を巻いても死にたくないと感じることしか僕にはわからないです。神には会いたいけれど、分からないことには沈黙するしかない。