3月と9月にほぼ必ず風邪を引くぼくですどうも。

ぼくと言えば界隈ではひ弱な頭皮が有名で
勉強したくらいのストレスで毛が抜けてしまう。
むしろストレスもないのに円形脱毛症に陥る。
という20代後半でイっちゃうタイプのモノホン臭さ故に付いたあだ名は数知れず
不毛の大地、タクラマカン砂漠、むしろハゲにしては毛量多い方、エトセトラ。。。
世間は僕たちをじっぱひとからげにしてこういいます。ハゲ、と。
「ハゲ」。この99%笑いを誘う鉄板形容詞。
ぼくはこの言葉で形容される度、面白おかしく笑い声をあげる周りからは
一人隔絶されたかのような錯覚に陥り、一人乾いた笑みを浮かべるのです。

春と言えば生命の季節です。花は咲き、太陽のヒカリが降り注ぎます。
日差しが気になり始める季節でもあり
この時期になり漸く日傘やつばのついた帽子を見かけるようになります。
僕たちが避ける陽光を一身に受け育つ小さな草花が
この時ほど視界に映り込んでくることはないでしょう。
四月を堺に緑はあらゆる場所に芽を出し始め、その神出鬼没さや
アクロバティックな根の張りどころには感心してしまうことさへあります。
その後六月を過ぎる頃には、この時期程の緑に対する新鮮味は失われ
ただただ、夏の日差しが鬱陶しく体に這うのを我慢しながら歩く事になるのです。
毎年入学式や卒業式のニュースを聞くたびに
ああ、始まりの季節がやってきたんだなあ。とぼんやり考えます。
しかし、始まらないものもあるということを忘れてはなりません。
死んだモノはもう二度と、二度と戻ってこない。二度と。
数年前に死んだ猫や数年前に死んだ某バンドのボーカルなどを思い浮かべつつ
ネットの世界から現実に立ち返り、キーボードを叩くぼくは
テーブルの向こう側にある鏡を見つめこう呟くのです。



コレが現実頭皮。

しかも今普通に現実逃避ではなく現実頭皮で一発変換された事に驚きを隠せません。
いや、隠してはないです。
読みました。漫画だから肉感がなくてよかったと安心しました。

幻聴と妄想の悩みはある程度理解できる部分がある。
あれらと現実は割り切れないんですよね本当は。
あれらは結局非現実という経験であるので、意識するまでもない妄想であるにせよ
ああいった事があった。という現実の僕の記憶までは否定できないので
その分心に病理が巣食ってしまう気がします。
それが救いだなと感じたのは、やっぱり生きるっていう本能には抗えないということで
そこから出てくる感情なのかもしれないけれど、優しいだとか人情だとか
その手の他人から僕に向けられる気持ちはそれこそ妄想や非現実だとして
僕の心が経験して記憶したものだという事です。

要はなんでもいいとかどっちでもいいとかそういう事ですね。
僕がなんであっても誰が何か言うわけでもなくて、無関心であったり
むしろ侮蔑してるのかもしれないけど、それだった別にどうだっていいんですよね。
侮蔑される僕という様態は許されてる。と言えると思います。
誰に許されてるわけでもないですけど。

この漫画のような世界があることを長いこと意識し忘れてたんですが
最近感じなかった居心地のイイ感覚を思い出せました。
マトモじゃない。とか異常者だとか白痴だとかが現実の中に居続けるのは本当に大変で
彼らと比べたら僕はいくばかマシだけど、やっぱりキツイ。
精神力を使ってる様子が描かれてあるけれど、あの感覚は常人には分からないと思う。
僕の場合は常に緊張状態で汗をかき、無意識の内に奥歯を一日中噛み締めてるから体が疲れる。
寝れない。そして特に他人の視線がもうやばい。等、色々重なって軽く発狂したくなる。
卯月なんとかさんと比べると楽園だろうけど。いやしかし常人と異常者は仲良く出来ないのかな
と思って諦めてたけど、どうなのかな。

学校に通い始めてもう10ヶ月経ちますけれど、最近漸く少しだけ外に出るのに慣れてきました。
まだ人と話すのはイヤだし、今日も知り合いにちょっと失礼なことしたけど
少しずつ慣れてきてる感覚はあって、前みたいにうまくやれるかもしれない。
という兆候があるようなないような。許されてるという観念があるから今は結構大丈夫気味。

私が普段考えている事柄の中でも最も頻繁に思索する事は「言葉」だ。
それ以外について考えている時ですらそれらは言葉に関する事であるし、全く関係が無い事でもそれを言葉の角度からついつい考えてしまう。
言葉の力っていうと胡散臭いが、その効用や概要というのは考えるほど深く有用で、例えば石ころ一つとってもそれを石として捉える事が出来るのは、省略されているのは言うまでもないが「認識」という言葉の羅列を頭の中で上手く繋げている事に依る。
こんな具合に視覚によって捉えられ、頭に放り込まれる映像ですら僕たちの中には言葉がつきまとう。
いや言うなれば映像それ自体最早言葉と言える。手話で聾唖者が会話する様に、仕草で人間が何かを理解するように、文字による言葉とは違う物質自体が理解を招く言語となっている。

石を石と理解する事にはどういう行程がなされているのだろうか。恐らく認識するという事が理解への要素としてあるはずだ。石を石と認識するとはどういうことか、もしくはどういう行程を辿るのか。
人はこれが石だと教えられ石を知るのだろうか。普遍的な石概念を知り記憶の中の石概念に映像を重ね合わせ、そこで初めてそれが石だと知るのだろうか。
いや先ず石という言葉を知る。石のゲシュタルトが崩壊しつつあるが、話を進めると、「石」というモノがあると知らされる以前に、「石」という言葉を先ず僕たちは認識するはずである。
この固く重い物質は何か?と人に訊ねた時彼は僕にこう言う「これは石だ」と。
その瞬間に僕は先ず石と物質的な石を結びつけ理解へと至るだろうが、その前に「何か(石)」という映像を僕は視覚によって、本質的な事は知らないが、知っている。そう重要な事は知っている。という事だ。「何か」について知っている事柄と言えば、ココにあり、固く、重い。
そして言葉としての「石」を吟味してみると、それは知識に過ぎず、いわゆるドクサにその位置を留めるだろう。こうしてその二つが結びつき理解が起こるわけだ。
では前者の映像としての「石」は一体なんだと言えるだろうか。それは「石」を知らないものにとって、「石」を知るものに対する「石」と何が違うと言えるだろうか。例えば石の事を指示代名詞で表していく限り両者の会話に不都合はない。

僕たちにとっての言葉とは、理解し、理解され、表す事。この三者だと考える事ができる。石の映像はそれらを全て満たしている。手話のように。
言葉とは何かと考えるに「現れ」だ。物質的な事柄達は、視覚によって、触覚によって、僕たちに理解されている。それは会話を発達させた僕たちが、写真によって記録を伝えるように、物を表象し、させているに過ぎない。というかそれ以上も以下もなく、ただ漠然とそうだと無関心に頷く以外何もないわけだが。
よって言葉はアプリオリだと言える。何故なら考える事以前に、僕等が「ある」こと自体そいつが言葉だと言う事に問題があるように思えないからだ。