今日、何故現代の女性は働く女性になりたいのか。という問題が挙げられていた。
曰く日本の女性は専業主婦に憧れる人が割と多くいて
大学を出て能力のある人間になったにもかかわらず、何故能力を使わないのか。云々。

僕はむしろなんでフランスやアメリカの女性は働きたがるのか。と問題提起したところ
失笑を買ってしまってなんだかやるせなくなりました。というかもうオレの発言はそういう
なんかいってるし。みたいに取られるから本当に悲しくなる。まいいんだけど。

先生が言うにはかっこよさというものに感応してるのではないか。ということだった。
確かに、女性が働く場合男性との比較が無意識のうちになされる。
要は、男性にも負けない女性の強さへの憧れ。というわけだ。

僕は経験的に女性の就労者ははっきり言って嫌いで、何より能力に劣るし
今日も言われてたけれど国の支出がかさむ。という点で合理的でないと思う。
そういうのはナンセンスだといわれるけれども、やっぱり役割というのは大事だなと考える。
主婦ってやっぱり役割分担という意味では効果的であるし
何より主婦のやってる事を軽んじてる風潮がいささかあるといのもいけすかない。

「かっこよさ」というのもやっぱりどこか疑問を覚える点で
主体性にかけてると思う。オリコンチャートで音楽を語るがごとくと言える。
かっこよさ。を全ての人が求めているというのはどこか不快だ。
果たしてかっこいいといのが全ての人に絶対的な価値を持っているのかというと否といえるし
やっぱりそこは主観的な面が大きく作用しているぶん
働く女性に対して主体があるのかと疑問を覚える。何故ならやっぱり役割分担でいうなら
誰かが家にいたほうが効果的で、それはやはり女性の方が向いているから。

しかし現代の社会構造上共働きはもはや必然だということを先生が言っていた。
そうなんですよね。男一人の給料で一家を養えるだけの給与がいただける世の中ではない。
故の晩婚化あるいは独身者の増加という事につながるとか。

うちの事を言うなら、やっぱり共働きなんだけれども、それ故の疎外感というか
理不尽な思いを何度か感じたことがあって、そもそもうちは特殊だとは思うけれど
それ抜きにしても今の自分はそういう幼少期の体験の結果だ。と思う。
これは想像の範疇を出ないのでなんとも言えないけれども
いつも母親が或いは父親がいない。鍵っ子。だとか。当然それによって
家族で出かけるだとか交流だとかいうのは人並み以下だったので
必然的に平均とはずれた子供ができあがるのではないかと心配である。
もちろんまともなやつはまともだけどね。恐らく全体的には病んでる子供を生むきっかけ
となっていると思う。共働きは。



思うにやっぱり性差の問題に集約される。この問題は。
問題としては、男女の近似値をとり、人を普遍化するような問題。
そしてその段階で起こる大衆心理と、弱者への攻撃。等。

男女の境を無くすというような狂気的な意気込みは何に端をほっしているんだろうか。
フランスでは企業の女性就労者を40%とする法律があるらしい。
日本でも男女雇用機会均等法だとか色々あるけれど
何故男女の垣根を取り払わなけれならないのか疑問である。
見て分かるが体力的な面で劣る女性をわざわざ働かせる事にメリットはない。
幸福権の追求というのなら、女性が男性並みに雇用を求めなければ男性あるいは全体の
幸福は守られるように思う。

幾ら社会構造上女性の就労者が必然であったとしても
40%という点や明らかに男性の就労者の需要が多い分
働く女性への憧れというのはエゴイズム、あるいはかっこよさに起因しているとするなら
主体性の喪失が原因のように思う。
だから、と言えるかもしれないけれど、仕事の出来る女性って魅力がある。
そこはまたジェンダー論の不毛な点で、女性を見下してる気がする自分に嫌気がさす。
げんざいボクは、5月8日の発表に向けて絶賛実存中。

毎回思うけれど哲学書のまとめなんて誰も聞いちゃいない。
ボクもフランス料理だとかフランス人の性癖だとかに全く興味をモテないから聞いちゃいないんだが、それは他の人もそうなわけですね。
最早何のテーマであっても誰も何も聞いちゃいないあの数十分間はなんなんだろうか。
ボクは何の為にあすこに実存してしまうのでしょうか。というようなテーマの小説で挑みます。
もう。こんなテーマ本当はなんてことのない口笛はなぜ遠くまで聞こえるの位の悩みなんだけど
いちいちそれを論理建ててみようという発送に至るアイツらったらホンマにこまったもんやね。
どりゃどりゃおいさんが君のいでおろぎーを要約して大学生に流布してあげようかね。

サルトルの嘔吐なんですが、この小説はマジに俺を殺しにかかってる。
嘔吐はそれ以前のサルトルの哲学思想を反映していて、それらが主題に置かれているからだ。
つまりこの小説を話すとなるとサルトルの哲学を下地にした解説が必要になるわけだ。
お分かりだろうか。興味のない話における起承転結の「起」
最早この起というチャンスを逃せば最後。承転結を聞くバカはいない。
オレは哲学になんて興味のない所謂四面楚歌の場にオモムキ、こう語りはじめる。
「えー、まずー、さるとるのー、即時存在、対自存在、という存在のあり方についての~」

そもそも小説として面白くなく起伏がないというのはいただけない。
そういった日常における哲学であるのは十分しょうちなんだけどね。
せめて水入らずくらいのドラマがないと哲学抜きにして語るっていう暴挙もできないわけ。
独学者という性的倒錯者が勉強というバイブルを携えた恋のルサンチマンなんですよゲヘヘ~
って言えないからね。
サルトルの嘔吐に出てくるてつがくのメタファーで音楽を哲学になぞらえてました。
曰く、音楽を聞く人は確実に辿るであろう音の連なりを期待し
それが終わることすらも望んでいる。
という話で、哲学的には、確実に辿るであろう運命的な未来を期待しつつも、死ぬことを望む。
といったところでしょうか。

何で嘔吐なのか、というと、学校でフランス文化演習とかいう授業を受けてて
これはぼくの行ってるフランス語専攻科では必修で去年も前後期受けた授業なんすよね。
何がイヤかといういと本を読んで発表するんだけども
ボクはいつも先生直々にトップバッターに任命されるんすよね。
正直もうどういう意図でそうしてるのか知らないけど毎回の事だし諦めてる。
故に発表まで時間がないので既読の小説を発表したろおもて嘔吐。

実存主義は文系の中の文系って気がする。特にカミュとサルトルはボクが思うに
太宰から今に至るまで変わらない、もやし系のメンヘラ作家が世界的に認められた例だと思う。
今はオタクもなんか活発になってて岸田メルとかパンピー、オノマトペ大臣とか
NERDらしくないNERDが増殖されつつはある。でも彼らは所謂ファッションオタクの最たるもの
だと思うんですよね。だってヲタってのは人間との関わりがめっちゃ怖くて
だから何かに没頭せざるを得ない欠陥人種だと思うからですよ。
人生楽しんでるヲタなんてヲタと認めたくないし、ヲタのなかでヒエラルヒーできちゃったら
もうインドじゃん。インドいいとおもうけど。

考えるにサルトルはヲタクの中でも現代では代表的なネトウヨ的なヲタだと思う。
哲学者が自由っていう観念を否定しがちなのは、ある意味ヲタ特有の変に固執した
アンチイズムからくる発想でもあると思います。
自由の否定っていう論理が結構整合性とれてて納得させられてしまうのは
やっぱり形而上学がアンチノミーを抱えているからなんだろうけれど。

サルトルはアンチの中のアンチで、自由アンチアンチなわけだけども、そういう態度は
ヲタ特有のなんか癪に触る論法なんすよね。
そして、有史以来哲学者が渇望してきた自由をネガティブに捉えるところ。
ここはもうやっぱメンヘラだなと思う。自由をネガティブに捉えるって凄い発想だけど。

それで、哲学のメタファーとしての音楽。は凄く奥が深いなあと思わせるわけ。
先ずそもそもサルトルは文章がすごい上手くて、簡潔でしかも詩的な事書いたり
哲学的な思索を描写するとこなんかめっちゃうまい。
音楽と哲学を並べるっていうのも文学的には素晴らしいと思う。
一つ一つの和音が終わる事を望んでる。っていう発想だけでノーベル賞あげてもいい。
しかもサルトルはノーベル賞辞退しますからこれもなんか癪に触るヲタ臭さがある。

音楽って具体的にはジャズのこと言ってるんやけど
現代的にいうとラップと哲学は似てるなと思う。
ビーフだとかサンプリングだとか主張的なとことか。
要は哲学もラップもヲタの集客率がいい。というのも色んなファクターがある事と
それらはいっぱい語る事があるということ。そういうトコ似てる。
ラップやジャズはどちらかというと実存に訴えるコンテンツで
哲学は本質に訴えるものだけど、比喩のやり口としてサルトルは凄いうまいことやってる。

それで運命愛的な事を言っているのかは不明だけど多分そういうことなんだろうなあ。
終わることすらも望む。という考え方は。
パスカルの人は考える葦だとか、コギトの影響も伺えてめっちゃサンプリングしてるやん
と思いました。

あと、サルトルはエンタメに富んでるなと思う。それは勿論カミュとのビーフで
カミュとサルトルっていう実存主義者同士の仁義なき戦いは
jay-zとnasのビーフを彷彿とさせるし
二人のまあ正反対のいろんな特徴はジャンプか!NARUTOか!と思わせるんすよね。

面白いんやけどやっぱりとっかかりが重要で
多分ぼくが発表するクラスの人たちはラップも哲学も興味ないだろうし
かと言って哲学なしに嘔吐をまとめるのは違和感あってダメだろうし。
あいつらちゃんと実存してないからなあ。