人との距離感の解決として、相手によって付き合い方に差異ができてしまう事が問題だと考える。
仲がいい。という状態が距離の解決だと思うが、そこへ至る道として疑問であるのが
順位が出来てしまうことだと思う。
「仲のいい状態」はある境界を越えた所にあるのだけれど、境界のこっちにしろ向こうにしろ
その範囲に点在する対人関係の中で、誰かと相対したとして
最も仲のいい人を感じざるを得ない状況に遭遇する事が多い。
気を遣う。であったり、特に笑わないといけない場面に遭遇する度に
一番仲のいい人達とその他の人との差異を感じる。
特に笑わないといけない。というのは辛い。
恐らく僕の体力はこの行為によって最も消耗されている。
しかしそれは「その他の人」を「最も仲のいい人」へと押し上げる努力であって
嫌われない様にという努力でもあるからかなり効率いい気がするんだけど
僕の様にあらゆる事象に脊髄反射で笑ってしまう様になったらもう駄目。
最も仲のいい人といると沈黙でいてもむしろ心地いいくらいなんだが
その状態は何があろうとほぼ相手が自分を自分が相手を「嫌う」事態には発展しない為
ちょっと烈しいくらいの安心感があってしまう。これはこれで問題だと思うが。
でもとにかくその他の人を最も~の状態へ押しやる為の努力は無駄ではない。
何故なら群れや社会を維持する事が群生動物の本能であれ目的であれなんであれ
実際に僕らは人との繋がりを放棄することに害はあれど維持することに害はない。
一見最も~の状態でなくともいい様に思うが、交友関係に順位がある限り
上位の群れは崩れ難く、それは人の本能の方向性として正しい。
僕が思うに、社会というのは肥大化する傾向にあって、他の社会との牽制だとか
自尊心だとか愛国心だとか自分のアイデンティティを固守する事だとか
それらに起因して大きくなることを望んでいる気がする。つうかそうだ間違いない。
すると僕が求めている例の最も~は間違っているのかという事になるが
それは違う。大きく固くあることが一番望ましい。そう、マイサンのように。
ここまで講釈垂れてなんだが、極端はだめだって事だね。両方を持っている必要がある。
よって人間はあの悪魔的な安堵感を求めて軽薄にも人と接することを行う。
僕が幸運なのは狭い範囲で固くこの十年間を過ごしてきたことで
今となってはどう足掻こうがあの数人の連中との社会は崩れない。
快楽主義者は一見考えなしに快楽を貪っているかのように映るが
内実はエピクロス派の様にストア派と同様その哲学は深い。
僕ら、少なくとも僕はストア派的な理念で軽く硬派に今ある関係性を築いたように思う。
他の人間が僕によってこなかったっていう事実は置いといて。
恐らく普通の人達は小中高大そして社会へと上がるにつれて
交友関係を増し、付き合う友人を変えていく。
それで、中にはやっぱり高校の友人が一番仲がいいだったり
大学の友人が一番仲がいいだったりある。というかそんな話を聞く。
これは僕らみたくやっぱりあの不健康な安堵感の共有だと思う。
いいなあと思う。僕はもう若干諦めつつあるけれど
普通の方達は二つとも持ってるんだもんなあ
「仲のいい人の順位」の問題は方法としては先ず交友関係を広げる事
次に深く付き合うこと。このステップを踏むことによって
順位をつけつつも、無差別的に一様な距離感を形成できるのだと考える。
逆を辿ると最も~以外の方達と接することに疲労してしまうんだろうな多分。
社会ってよくできてるんやなあ。
多くの人と付き合うっていう器用な真似はできないからどちらにしろ無理だったように思うが
今の僕は交友関係を広げるチャンスに立っているので、出来うるならばと思う。
「仲のいい」という事はやはり哲学を知り、知られていることだと思う。
人は哲学大系をそのまま披露することはしないが、つうか意識ない人もいるけど
趣味や好き嫌いによってそれらを部分的にちらつかせてる。
いいとか悪いとか自分の価値判断がどっちであれそれを知っておく。そんでそれに合わせる。
これがあの距離感のサノバビッチをこらしめる方法だ。そうであってほしい。
やっぱりヘラヘラ笑ってないとだめってことだ。
人並みになりたい。
仲がいい。という状態が距離の解決だと思うが、そこへ至る道として疑問であるのが
順位が出来てしまうことだと思う。
「仲のいい状態」はある境界を越えた所にあるのだけれど、境界のこっちにしろ向こうにしろ
その範囲に点在する対人関係の中で、誰かと相対したとして
最も仲のいい人を感じざるを得ない状況に遭遇する事が多い。
気を遣う。であったり、特に笑わないといけない場面に遭遇する度に
一番仲のいい人達とその他の人との差異を感じる。
特に笑わないといけない。というのは辛い。
恐らく僕の体力はこの行為によって最も消耗されている。
しかしそれは「その他の人」を「最も仲のいい人」へと押し上げる努力であって
嫌われない様にという努力でもあるからかなり効率いい気がするんだけど
僕の様にあらゆる事象に脊髄反射で笑ってしまう様になったらもう駄目。
最も仲のいい人といると沈黙でいてもむしろ心地いいくらいなんだが
その状態は何があろうとほぼ相手が自分を自分が相手を「嫌う」事態には発展しない為
ちょっと烈しいくらいの安心感があってしまう。これはこれで問題だと思うが。
でもとにかくその他の人を最も~の状態へ押しやる為の努力は無駄ではない。
何故なら群れや社会を維持する事が群生動物の本能であれ目的であれなんであれ
実際に僕らは人との繋がりを放棄することに害はあれど維持することに害はない。
一見最も~の状態でなくともいい様に思うが、交友関係に順位がある限り
上位の群れは崩れ難く、それは人の本能の方向性として正しい。
僕が思うに、社会というのは肥大化する傾向にあって、他の社会との牽制だとか
自尊心だとか愛国心だとか自分のアイデンティティを固守する事だとか
それらに起因して大きくなることを望んでいる気がする。つうかそうだ間違いない。
すると僕が求めている例の最も~は間違っているのかという事になるが
それは違う。大きく固くあることが一番望ましい。そう、マイサンのように。
ここまで講釈垂れてなんだが、極端はだめだって事だね。両方を持っている必要がある。
よって人間はあの悪魔的な安堵感を求めて軽薄にも人と接することを行う。
僕が幸運なのは狭い範囲で固くこの十年間を過ごしてきたことで
今となってはどう足掻こうがあの数人の連中との社会は崩れない。
快楽主義者は一見考えなしに快楽を貪っているかのように映るが
内実はエピクロス派の様にストア派と同様その哲学は深い。
僕ら、少なくとも僕はストア派的な理念で軽く硬派に今ある関係性を築いたように思う。
他の人間が僕によってこなかったっていう事実は置いといて。
恐らく普通の人達は小中高大そして社会へと上がるにつれて
交友関係を増し、付き合う友人を変えていく。
それで、中にはやっぱり高校の友人が一番仲がいいだったり
大学の友人が一番仲がいいだったりある。というかそんな話を聞く。
これは僕らみたくやっぱりあの不健康な安堵感の共有だと思う。
いいなあと思う。僕はもう若干諦めつつあるけれど
普通の方達は二つとも持ってるんだもんなあ
「仲のいい人の順位」の問題は方法としては先ず交友関係を広げる事
次に深く付き合うこと。このステップを踏むことによって
順位をつけつつも、無差別的に一様な距離感を形成できるのだと考える。
逆を辿ると最も~以外の方達と接することに疲労してしまうんだろうな多分。
社会ってよくできてるんやなあ。
多くの人と付き合うっていう器用な真似はできないからどちらにしろ無理だったように思うが
今の僕は交友関係を広げるチャンスに立っているので、出来うるならばと思う。
「仲のいい」という事はやはり哲学を知り、知られていることだと思う。
人は哲学大系をそのまま披露することはしないが、つうか意識ない人もいるけど
趣味や好き嫌いによってそれらを部分的にちらつかせてる。
いいとか悪いとか自分の価値判断がどっちであれそれを知っておく。そんでそれに合わせる。
これがあの距離感のサノバビッチをこらしめる方法だ。そうであってほしい。
やっぱりヘラヘラ笑ってないとだめってことだ。
人並みになりたい。