
ゴロゴロゴロ♪
おこんにちは、ネコバッカ王国です。
七月かーはやいなー。一年の折り返しを曲がりましたね!…細かいことは気にしない!
胡真ちゃん大分元気です!猫風邪もよくなり今は神経系に作用する薬を飲みながら生活しています。正直私は驚いたのですが、現地点で四つ足で立ち、歩くようになりました(*゜▽゜ノノ゛☆
といっても右手が能動的な動きがかなり苦手なので力の入れ具合の問題ですぐに転ぶし欽ちゃん走りみたいな歩き方なんですけどね(苦笑)
子猫の力足るや凄いもので薬の作用もすこぶるいいですし、後遺症が残ってもここまで回復してくれるとまだまだのびしろにかける希望が湧きます。血液検査は八月頭辺りからを目安に順次行っていく予定です。
しかしまぁ…いますねぇ、おちびたち。
毎年子猫は見かけますが、心が痛みますね。この子達が次世代を作るわけですから。そして次世代を作ってきた子達を見てきました。今も見かける子、もう見ることのない子。自分の家の子じゃなくても心は痛むし辛いものがあります。猫の避妊、去勢や地域猫の知識や思想普及もそうですが家猫だって避妊、去勢が必要で。それでいて家猫が家猫である必要性。それがいかに大事であるか…啓発を行い続けなければなりませんね。
以前まで私は宝くじでも当たれば少しでも助けてやれるのにと思っていたことがありました。家を買うとかそうすれば保護もしやすいし、ボランティア団体にも基金ができる。もしくは周囲のにゃんたちを引き取れる。でもどこかの地点であ、これは違うと思いました。宝くじで当たってもお金はお金。お金は有限。しかし命の連鎖は無限です。体ひとつに命はひとつ、でもそれが連鎖していけば無限になります。それを有限のものが救えるか?そこはやはり有限なのです。限りがあり一部も一部ごく一部でしかない。私が救いたいと思った命のどれだけの一粒でしょうか。
確かにその一粒でも救えたらいいかもしれません。でもお金があれば救えるは事実でありながらも傲慢で驕りです。ストレートにいえば自己満足に過ぎない。
じゃあ不幸を背負う命の連鎖を止めるのは何かとなったら対する命です。お金はどうしてもかかりますね。制度的な問題でもそうです。国がそれを行ってくれるようになるにはそれだけのお金が動くのですよ。でもお金で解決できるのはごく一部。無限である命が出来るのは、対する命にたいして敬意をはらい、その命ひとつひとつが意識を持つこと。責任を持つこと。事実左団扇であっても法律で決まっていても、全てを無視し凌駕する人々はいます。
でもそれも命です。意識が足りていない、理解がない知識がない、もしくは良識がない。そこへ根気強くあたっていかなければ何も解決できないのです。命ひとつは重い。何処にも秤がないですがそれでいいのです。あっちゃならん。どれも重くていいし、そこが大事。
私はにゃんと暮らし出して、愛情の片寄りとか、ひとがたの子供ができて、愛情の軽減とかを気にしていた時期があります。
そもそもそんなことはなくて。平等である必要性はなくて。その命に対するそれぞれの愛情があるから増えたら増えた分単純にいえば愛が増えました。でもひとつひとつバラバラだからパズルのピースみたいな愛で、増えたら増えた分パズルがでかなっていく。じゃあいなくなったらどうなるかといえば、ピースはなくならない。愛情があった事実は消えないからです。死んでなお思いだし慈しむから消えない。ピースは色褪せるかもしれないけどそのまま。自分が大事にしてきたパズルが色々な形で徐々に大きくなり、ところどころ色褪せながらもまだ、ちゃんと、大きくなって、愛しいのです。私のパズルは最近また大きくなりました。そしていつか、またピースが色褪せる日が来ます。友人が以前そんな数とのお別れに耐えられないと言いました。私も耐えられると思ってはいませんし、未だに引きずっています。でも、んー…ないけどちゃんとある。形はないけど。形がないってのがどれだけ苦しいか解るけど、ちゃんとあんねん。あるから苦しい。何で苦しいか。愛しいから。なぜまだ愛しいのか。ないけどあるから。形がなくてもパズルがあってピースはなくなってないやん。残るやん。消せへんやん。消したないやろ。消えてもうたら自分の悲しみはもっと大きくなる。苦しんでいいし悲しんでいい。
だからまだまだ好きになる。ピースは増えて構わん。
んー支離滅裂!!書きたいこと突っ込んだらこんな風になっちゃいましたね(笑)

ごめん寝!!

ごめん寝!!