遠い国、チリで発生した大地震による津波が心配です。
今朝早くに津波注意報が出され、
1mの津波予想と報じられています。
今のところ・・・、
その到達予想時刻を過ぎましたが、
引き続き警戒してもらえたらと思います。
* * *
前回記事からの続きです。
被災した地域での「語り部」のことです。
当日のデラさんとの待ち合わせ予定は、
七ヶ浜町内にあるご自分の「おのでら接骨院」。
と、、、
そこに向かって車を走らせていたところ、、、
仙台港付近で合流をしようという連絡が。
そこは仙台港北インターチェンジあたり。
そう、その場所は、、、
震災当日の地震の後、
帰宅のために仙台市内から自宅のある七ヶ浜町へと車を走らせていたとき、
その目の前の道路を掻き分けて津波が押し寄せて来、
急遽Uターンして車を乗り捨て、避難した所。
緊急避難先は6m上の高速道路。
その高速道路橋桁の下で、
当時デラさんが目にした風景、
とった行動を、
その時撮った写真と共に語ってくれました。
そこでは、フェンスを乗り超えて、
土手の上、高速道路によじ登ろうとする人で一杯だったそうです。
力ある人は、後から後からよじ登って来る人に手を貸して上にあげたと。
デラさんもその一人。
一頃立つと、
デラさんより若い男性が、
”あとは自分がやります”
といって交代してくれたそうです。
そうして助かったのだと。
いくつもの偶然と、
幾人との助け合いと、
ほんの一瞬の判断で、
生死の境界があったということです。
道路に乗り捨てた車には、名前と連絡先を貼っておき、
その四日後、無事に戻ってきたのだそうです。
その機転の利いた行動で助かったわけです。
通常は二車線の走行車線をUターンして…、
中央分離帯辺りに車を置くことはないでしょう。
それでも逃げるためにそうせざる負えなかった。
ギリギリの判断だったといいます。
事実、、、
歩道側に乗り捨てていた車は既に水に浸かっていて、
その水を掻き分けて必死で逃げたわけです。
そしてその後の救助活動。
物事の善し悪しは一瞬です。
それまでの判断がよかったかどうかはともかく、
今度はその一瞬に、
同じように逃げてくる人たちを救う。
自分の命あってのこと。
こうして、今、生きているのです。
そうして、これまで生きてきたのです。
そんな心のなかを、
ご自分自身もあの日を振り返るように、
お話ししてくれました。
ようやくに。。。
それが4年目の春。
デラさんと私と息子の三人で、
高速道路の上によじ登ったという場所まで行きました。
そこは当時も今も中古車屋さん。
その展示スペースを入り、
よじ登ったという場所に行ってみると、
震災当時と同じように中古タイヤがフェンス越しに積まれていて・・・。
その山済みのタイヤがあったから、
2m以上もあるフェンスを乗り超えられたといいます。
だから女性やお年寄りも助かったのだと。
水と共に襲ってくる瓦礫や車、
近くのビール工場から流れ出た缶ビール、
そして、その先に立ち込める火災の黒い煙。
写真と言葉でお聞きした「語り部」は当時の凄まじさを教えてくれました。
・・・”語る”ということ。
それはひとつ勇気のいることです。
当時取った行動の善し悪しや、
自分でも気付かないこと、
それと、ああすればよかった、
こうすればよかったという後悔や振り返り。
人から指摘される言葉。
伝わらないキモチ。
人から受ける非難も。。。
それと、、、
これがなかったら…とか、
あと数秒判断が違っていたら…とか、
そんな事態が蘇り、、、
もしやの事態を想像するのも嫌なことです。
「語り部」という活動は、
そんな沈黙をやぶるということ。
4年目の春をむかえて、
私たちは、
当時のことを、当地の人たちが語れるようになった、
このことに、いま一歩心を寄せてみてはどうかと思いました。
そう、
身近な人、それぞれに、
それぞれの「3.11」があるということを
あらためて教えていただきました。
これからも、”共に前へ”
シゲ 多謝
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