今朝、庭に出てみたら、クレマチスの花が二輪咲いていました。
この苗、、、
実は、見切り品で売っていた小さな苗。
去年、地べたに近いところで一輪花を咲かせ、その後、葉の付きもよくなく、、、
思い切って、去年秋に根元まで剪定しておいたものです。
今年は二輪咲いてくれました。
葉も、側に立てた竹棒にツルを伸ばして、今、上に上に伸びています。
--- 成長の軌道にのったようです。
いつか、フェンスまで背丈が届き、壁伝いに花をたくさん咲かせて欲しいと思います。
* * *
先日、タクシーに、行きと次の移動にと連続して乗る機会がありました。
仕事の予定が立て込んでいたのと、駅からバスで移動しなくてはならない訪問先だったため、慌ただしくも利用させて頂きました。
その時のできごとです。
行きのタクシーで。
行き先を告げると、まずは走り出して、最初の信号待ちでナビに住所を投入。
危なっかしくも目的地の方角に進むことを優先として下さいました。
生憎、運転手さんがわからない行き先であったため、途中、車を一時停止してナビで案内を仰ぎます。
どうにかこうにか目的地まで着き、向かい側のビルにUターンをして車を横付けしたその瞬間、”カシャン”とタクシーメーターが上がりました。
途中不慣れな道を探しながらの運転の締めが、このシチュエーション(苦笑)。
なんとも言えない、後味の悪い料金支払いとなりました。
次の移動のタクシーで。
ちょうど、ビルの前を通りがかったタクシーに手を上げて乗り、行き先を告げると、まずUターンをしました。
そして、”はいここから”とでもいうように、タクシーメーターをポンとスタート。
降りる時も、どの辺りがいいかを当方に聞いてくれて、メーターが上がる頃を見計らったようにメーターをストップ。
そして最後のアプローチを行なってくれました。
とってもスマートで、乗客の気にするところをさり気なくカバーしてくれて、その運転におもてなしの心と、高いプロ意識を感じ得ました。
* * *
話は変わりますが、、、
私は藤沢周平さんが大好きで、
タクシーに乗るたび、思い出すエッセイがあります。
「帰省」というエッセイの文中にある、以下の文章です。
”今度の帰省ではひんぱんにタクシーに乗ったが、鶴岡あたりにも経済性優先という時代の気分ははびこってきているようで、私も道を知らない観光客と思うのか、ちょっと遠回りしてみたり、終点でガチャリとメーターが上がるような運転をする人がいる。
鶴岡というところは人間がのんびりしている点が取柄なのに、一部にしろそういう人がいることがはずかしく思われた。どうも品よくもうけるのはむつかしいことのようである。” ~(「小説新潮」平成7年1月号)
私も同じことを思うんです。
そう、
降車直前で”ガチャり”とメーターが上がること、または上げることって、品のないように思えるんですよ。
別にその瞬間を楽しんでいることもないでしょうけど、運転手さんにはその配慮と余裕を持って欲しいナ、、、といつも思ってしまいます。
先の文章を読んだとき、、、
私の長年の憂いがゆるみ(笑)、
”そうか、こちらの憂いはもっともなことで、
運転手側の方の「品」に問題があるんだ。。。”
と、こんな解釈をしても何も変わらないながらも(苦笑)、、、
気持ちの整理だけは無事決着をつけているのであります(笑)。
* * *
後者の運転手から。
何事も、余裕があれば、自分の視野から、乗客の視野に入れるというものです。
そんな小さな目線が、乗客からみればとてもスマートで「その道のプロ」の行動に見て取れます。
その行動一連が「品格」としてあらわれるものだなと、あらためて感じた運転手の振る舞いでした。
そして、藤沢周平のエッセイから。
一運転手の「品」以上に、生まれ故郷の鶴岡の人間の「品」まで憂いていらっしゃる。
故郷愛もここまで来れば微笑ましい限りです。
藤沢周平さんの、そういう故郷の親父番みたいな発言、そして多少偏屈なご意見のなかから、あらためて藤沢流”普通”目線の大切さを気づかされます。
タクシーメーターのカウンターから覗き見た、「品格」のお話でした。
-END-