おはようございます。
今朝は昨日の続きから。
心というのは雲の上と下とで分けられること、雲は感情のようなものであり、どんな天気であっても絶えず雲の上は晴れていることを思い出すことができると書きました。↓
中国古典の世界では、これはどんなふうに説明されているのでしょうか?
唐代の儒学者である李翺(りこう)は、自著『復性書』の出だしでこのように述べています。
人之所以為聖人者,性也;人之所以惑其性者,情也。
人間には「性」と「情」があり、「性」とは人の尊厳など神聖さの源と言って良いもの。これを惑わすものが「情」なのです。
中国哲学でいう「性」とは、性別や情欲の「性」ではなく、「人間の本性(ほんせい)」のこと。
この書では、「情」は「性」が動いて起きるものであり、「情」をいかに取り扱って「性」の本質を高めることができるのか=「復性」について記してあります。
李翺がとりあげた「性」というのは、四書五経の一つである『中庸(ちゅうよう)』の序盤で説かれているもの。
天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。
ーー『中庸』第一章
本来人間は誰もが天より素晴らしい資質を賦与されている。これを「性」という。その「性」を統率することを「道」と言う。その「道」を自ら修得すること、それが「教」である。
この「率性」部分の解釈もさまざまあり、「性に従う」という趣旨の翻訳がされていることが多いです。
「率」をめぐって、「性」を自らの意思によって統率するのか、あるいは受動的に「性」のあるがままを尊重し従うのか、という2つのあり方が炙り出されてきます。
おそらく、どちらも正解であり、その両方を同時に意識することがまさに古代中国思想なのでしょう。
面白いのは、自ら修得することが「教」であること。
教えられるのを待っているのではなく、自ら育てていくわけですね。
これが「教育」の本質だ、と『中庸』では語られているのです。
自分で学び、自分で心を育てていく。
私は木をイメージしました。
自分で木を植え、育て、手入れをして心の森に育てる。
なんだか素敵な週末になりそうです