よい絵とは、ああっと言うだけで、
ものが言えなくなるような絵だ。
どうだこうだと言えるような絵、
言いたくなるような絵は大した絵ではない。
横山大観
日本の美術家、日本画家。
近代日本画壇の巨匠であり、
今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、
線描を抑えた独特の没線描法を確立した。
朦朧体
洋画の外光派に影響され、
東洋画の伝統的な線描技法を用いず、
色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した。
絵の具をつけず水で濡らしただけの
水刷毛を用いて画絹を湿らせ、
そこに絵の具を置き、空刷毛で広げる技法、
すべての絵の具に胡粉を混ぜて使う技法、
東洋画の伝統である余白を残さず、
画絹を色彩で埋め尽くす手法などが用いられた。
1868年(慶応4年 / 明治元年)、
水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた。
1888年(明治21年)、
母方の縁戚である横山家の養子となる。
東京府立一中、および私立の東京英語学校の
学齢時代から絵画に興味を抱き、
洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。
1889年(明治22年)、
東京美術学校に第1期生として入学。
岡倉天心、橋本雅邦、黒川真頼らに学ぶ。
美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、
同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。
1896年(明治29年)、同職を辞すと、
母校・東京美術学校の助教授に就任した。
しかし2年後に当時校長だった
岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。
天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、
同年の日本美術院創設に参加した。
美術院の活動の中で、
大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた
新たな画風の研究を重ね、
やがて線描を大胆に抑えた没線描法の
絵画を次々に発表する。
しかしその先進的な画風は
当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。
保守的風潮の強い国内での活動が
行き詰まりを見せ始めたため、
大観は春草と共に海外に渡った。
インドのカルカッタや、
アメリカのニューヨーク、ボストンで
相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。
その後ヨーロッパに渡り、
ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、
ここでも高い評価を受ける。
この欧米での高評価を受けて、
日本国内でもその画風が評価され始めた。
1907年(明治40年)には、
この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。
欧米外遊での経験から、
西洋画の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、
大正時代における琳派ブームを牽引した。
1913年(大正2年)には、
守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を、
下村観山、木村武山等と共に再興した。
以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、
1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。
戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、
同年に文化功労者となった。
大観は1958年(昭和33年)2月26日、
東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。
大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により
正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。
「言葉を失う」という表現がある。
感動や衝撃のあまり、
それを表現する言葉が見つからなくなることだ。
上記の言葉には、
優れた絵画(美術)にはそれだけの
感動や衝撃をもたらすという意味がある。
大観は
「己が貧しければ、そこに描く富士山も貧しい」
という名言も残している。
2024年3月29日
午前中はゴルフの練習。
昨日、大連駐在の妻から、
「今年のゴールデンウィークは帰るよ
(4月27日~5月4日の予定)」
との連絡があった。
また人間ドックの受診日が5月2日に決まった。
(昨年受診時の体重は76.7kgだった)
人間ドック受診に合わせて、
今月10日(80.1kg)から始めた集中ダイエットは、
昨日28日(76.6kg)と結果がでている。
今日から1ヶ月、
気を引き締めなおして後1kg減量して、
妻からのミッションでもある
75kg台をキープするぞぉ~・・・!
庭の芝生の草が目立ってきている。
午後は草抜きを!