古い額を見つけたので、夢二の版画を額装しました。

版画は大正時代に発刊された「路地の細道」から取ったものです。

この本には十数枚の手摺の版画(挿し絵)が含まれていました。

本以外では、女性雑誌の「婦人グラフ」や「セノオ楽譜」などが有名です。

これらは表紙や挿し絵に木版画が使われていますから、発行部数は少なかった様です。

 

 

夢二の描く女性像は、「夢二式美人」と言われています。

大きな眼、色白のうりざね顔、すらりとした手足、きしゃな肢体などが特徴です。

どこか漫画チックにも見えますが、愁いをたたえた表情は魅力的です。

私もグラマーな女性よりも、スレンダーな女性の方が素敵に見えます。

でも、美人像は時代により変化し、人それぞれ異なるものです。

 

 

「まるで夢二の絵から抜け出た様」と言われた三番目の妻の「お葉」さん。

絵のモデルだったのですから、そう例えられるのは当然のことですが、令和の今でも充分美人です。

秋田生まれとされますから、色白の秋田美人だったのでしょうか。

 

 

日本では、津軽美人、庄内美人、越後美人、加賀美人、博多美人など日本海側に美人が多いとされますが、一理有る気がします。

ただ、本来の美人は外見だけではなく内面の美しさも具わった人のはずですが、それらは目に見えないものですから、外見だけでは分からないのですね。

 

子供の頃メンコやビー玉で遊んだ記憶が有ります。

ゲーム機も有りましたが、エポック社の野球盤などです。

その頃遊んだ玩具は捨てられて、今は残っていません。

 

 

宮城ではメンコ遊びを「バッタ打ち」と言います。

地面に置いたメンコに別のメンコを叩きつけて、ひっくり返す遊びです。

返されないようロウソクを垂すなどして改造していました。

値段も数円から数十円程度ですから、子供にも手軽でした。

 

 

メンコの図柄は、当時人気が有ったものが選ばれた様です。

戦時中は飛行機や軍人、戦後は力士や役者、野球選手など、私の子供の頃には特撮ヒーローやアニメキャラクターなどが多かった様です。

メンコには時代が反映していますから、資料的価値は有るのかもしれません。

でも、中に骨董的価値や希少価値が有るメンコは無いのでしょうか。

 

 

調べると、仮面ライダー、ウルトラマン、月光仮面、ディズニー、タイガーマスク、ガンダムなどが人気の様です。

これらは当時の子供が大好きなものですから、全て見つかりました。

数百円程度で売られているものが見つかりましたが、特に高価なものは有りません。

 

 

でも、モノの価値はひとそれぞれ、金銭的価値だけが物の価値とは限りません。

ある人にはゴミでも、別の人には宝物ということもあり得ますし、その逆もあることでしょう。

まさに紙屑みたいなメンコですが、私には捨てることが出来ないのです。

 

 

 

 

 

最近お気に入りの肴は、南部どりの焼き鳥です。

素材が良ければ、シンプルな調理で充分美味いものです。

器の長皿は古伊万里には見えませんから、幕末明治のものでしょうか。

この皿が入っていた木箱を確認して、疑問が生まれました。

木箱の表には松竹梅長皿十人前、裏には○治元年と書かれています。

 

 

明治元年(1868)か元治元年(1854)と思いますが、崩し字は(明)に見えます。

昔知り合いの骨董店主に「幕末と明治のものはどう違うのか」と聞いたことが有りました。その際「店主が幕末と言えば幕末、明治と言えば明治」と言われました。

つまり、それほどの違いは無いということです。

では「幕末」とは、いつ頃なのでしょう。

黒船来航の嘉永6年(1853)から戊辰戦争終りの明治2年(1869)までとするものが多い様です。

驚くことに、わずか十数年しか有りません。

 

 

そうすると、幕末の古伊万里と明治初期の伊万里との見分は、確かに難しいかもしれません。

問題はこの染付の色です。ベロ藍(化学呉須)を使用したものに見えましたが・・。

私は北斎の浮世絵にもベロ藍が使用されていたのですから、江戸後期の焼き物にも当然ベロ藍が使用されていたと思っていたのです。

調べると、ベロ藍の絵具が日本に輸入されたのは1745年で、伊藤若冲の1765年頃の日本画にベロ藍の使用が確認されている様です。

 

 

重要なのは、焼き物に対してベロ藍が使用された時期です。

伊万里でベロ藍の呉須が使用されたのは、ドイツ人化学者ワグネルを招聘した明治3年以降(1870年)とされています。

つまり、明治3年以前にはベロ藍を使用した伊万里焼は存在しないと言う事です。

ただ、江戸後期や幕末と称する古伊万里の中に、ベロ藍に見える染付が存在しているのは事実です。

念のため陶磁器博物館の学芸員の方に聞いてみたのですが、ベロ藍の使用は明治3年以降と同様の認識でした。

 

 

そうすると、この長皿が明治元年製でも、ベロ藍は使用されていないはずです。

これまで私がベロ藍の染付と思っていたものは、誤りだったのでしょうか。

参考までに、明治期に入ると思われる猪口と比較しても、ほぼ同様の色に見えます。

ただ、本によっては、江戸後期には中国船により輸入され既にベロ藍の呉須が使用されていたとする説も有る様です。

ちなみに、知り合いの骨董店主に尋ねると、幕末にはベロ藍が使用されていたとする人がほとんどです。

本当のところは、どうなのでしょう。

伐採跡の遺跡で石鏃を見つけましたが、先端が折損していました。

石器には使用痕が残りますが、鏃や尖頭器は衝撃剥離痕とされます。

突き刺さった衝撃で、先端や基部などが破損する様です。

見方を変えて、この折れた鏃も使用痕と考えれば、決して残念物ではありません。

 

 

私はこの分野に関心を持って数年にすぎませんから、分からないことだらけです。

昔、沢山の円礫を見つけたのですが何か分からず、ブログを見た方に石器だと教えて頂きました。

この石器はこの遺跡でも沢山見つけていますが、滅多に採取することは有りません。

ちゃんとした石器なのですが、地味すぎて大きく場所も取るのです。

楕円形の磨り石が多い様ですが、砥石や敲き石としても、また複合的にも使用されたものも有る様です。

 

 

敲き石と言えば、玉髄?の玉石を再び見つけました。

石器を分かるには石の知識が必要なのですが、私は岩石も良く分かりません。

これまで石器などの材料かもと思っていましたが、ほとんどの石に潰痕があります。

この石は石英と比べると緻密で硬い様ですから、敲き石として使用されたのかもしれません。

下の小さな石は、層状の割れ口ですから瑪瑙でしょうか。

 

 

敲かれて原礫面が剥離した様に見える円礫です。

敲き石には、硬いものや柔らかいもの形も色々有る様です。

この石は柔らかい石質の様ですが、これも敲き石(ソフトハンマー)なのかもしれません。

 

 

これまで遺跡で見つけた玉石です。

「通常海岸に在る石が山に在るのは遺物だからかも」と思っていました。

最近、興味深い資料を見つけました。青森市米山第2遺跡で縄文土器と一緒に見つかった玉石の写真です。(この写真は無断掲載禁止の様ですから、興味ある方は検索してください)

用途は不明の様ですが、黒、白、緑などの綺麗な玉石は、私が見つけたものとよく似ています。

 

 

考古学では不明なものは「祭祀に使用されたものか」とされることが多い様ですが、ただ単に海から綺麗な小石を持ち帰っただけかもしれません。

全ての物事が解明出来ると言う考えは、現代人のおごりの様に思います。

 

 

今日の肴は牛タンです。

牛タンは仙台名物ですが、材料は勿論仙台牛などでは無く、ほぼ外国産の様です。

それでも、久しぶりの牛タンは格別です。

器の長皿は、昔仙台で求めたものです。

 

 

とぼけた魚の表情が面白かったのです。

後から、地元の骨董店でも同じ皿を見つけました。

店主によれば、図柄は鰹で「切込焼」だろうと言っていましたが、どうでしょうか。

切込焼は、宮城県宮崎町切込地区で焼かれた伊達藩御用窯ですが、不明な点が多いのです。

 


 

最近、またまた同じ図柄の長皿を頂きました。

県内で三度も見かけたのですから、切込焼の可能性も有るのかもしれません。

実際、この側面の文様を切込焼の特徴と言う人もいる様です。

二十枚ほどの皿を見比べて、気付いたことが有ります。

 

 

同じ図柄(魚)とは思えないものが、混在しています。

筆の運びも異なっていますから、何人かで絵付けしたのでしょう。

別々の図柄の可能性も有りますが、画一的な今の器と違って、人の手により作られたものの温かさを感じるところです。