最近、いつもブログの書き出しが同じになってきました。
枕詞のように「全然書いていません」からスタートするブログ。ブログに依存しないことは良いことなのですが・・・うーん、なんかそうとも思えない自分もいます。
最近話題になっていることについて、書いてみようかな。
テレビではあまり報道されていないみたいだけど、ネットニュースでは色々と取り上げられていた、JRの無人駅での対応について書いたブログが話題になっています。賛否様々で、何となく否の方が多い感じを受けています。同じ障害者からも否の声が出ているのが、今までとちょっと違うところかもしれません。
ここからは、あくまで「私見」です。なので、個人的な考えです。
この方は別の記事で「わきまえる障害者になりたくない」と言っています。まぁその先のことは個人の考えなので、それをどうこう言うつもりはありませんが、「わきまえる」ってどういうことですかね。
広辞苑では、「わきまえる」の意味として
①物の道理を十分に知る。よく判断してふるまう。ものの区別を知る。弁別する。
②つぐなう。弁償する。
と書かれています。なので「わきまえる障害者になりたくない」に意味をそのまま当てはめると「よく判断してふるまう障害者になりたくない」ということですよね。これ、健常者がこういうことを言ったらどう思われるのでしょうね。
多分、問題の本質は障害者差別ではないような気がします。
恐らく、この姿勢ではないのでしょうか。普通の人は何か行動を起こすとき、物事をよく判断してから行動しているものと思います。判断するためには様々な材料を集めて、その上でどうするべきかを考え、行動をしています。これが普通ではないでしょうか。
この観点から考えれば、ここには障害者も健常者も関係ありません。
今の自分の置かれている状態から物事を判断し、それに対しての方法を取っていきます。市それに障壁があるものと考えられるのであれば、その障壁に対してどのようにアプローチするのかを考え、行動に移すのだと思います。
この方は「公共交通機関なので普通は連絡なくても乗れるだろうと思っている」と話しています。たしかに、普通は連絡なくても乗れると思います。でも実際の状況はどうなのでしょうか。これが東京のような首都圏であればある程度エレベーターなどの整備がされて昔に比べバリアフリーは進んでいると思います。しかし一歩離れて外に出たらどうでしょう。すべてがバリアフリーであるとは限りません。東京だって、青梅から先の青梅線の駅を見れば、バリアフリーなんか進んでいません。そもそも、駅とホームの間すら大きな隙間があるのですから。
だからそういうところをできる範囲で、駅員さんがサポートをしているわけです。
段差や隙間があっても、首都圏なら当たり前のように駅員さんがスロープを用意しているわけです。いわゆる「合理的配慮」っていうものですね。当然と言えば当然なのですが、大事なのはこの「当然のこと」をどのように考えるのかではないでしょうか。
もしこの「当然のこと」を「当たり前だ」と言い切ってしまったら・・・感じ、悪いですよね。
もっとライトなところで考えれば、年配の方に席を譲って、その方から「当たり前だ」と言われたら、譲った人の気持ちって踏みにじられていますよね。
でも「当然のこと」に対して感謝の気持ちがあれば・・・印象は違いますよね。
席を譲ってもらい「ありがとう」の一言があれば、それだけでも救われた気持ちになれると思います。
自分もブログを読ませていただきました。たしかにJRの方の対応にも疑問はあります。
ただこのような書き方をされてしまうと、単純に状況の分からない人が見れば「何を言っているのか?」と思われても致し方ないと思います。その後補足の説明がされていましたが、それがあったとしても、なかなか理解は難しいものと思われます。
今回の出来事は確かに考えて行かなければいけない問題です。
しかしそのことと「合理的配慮を訴える」は、同じ土俵で話しても一方的なものになってしまい、議論として成り立ちません。そこは分けて書いて議論すべきことだったのではないかと思います。見る人によっては「感情的に書いた」との印象も与えかねず、表現をしていく上では非常に慎重になるべきものだったのではないのかな、と思います。
とはいえ、そういう自分もうまく書けているかわかりません。
感情的に書いてしまうと、その文章は感情しか乗りません。文字だけの表現は非常に難しいもので、自分も仕事でモニタリング報告書を書く時も結構考えながら書いています。言葉で説明をすると言えども、基本は文字ベースになるので、文字だけで判断されてしまうこともあります。なので、慎重に考えながら書いています。
一応このブログも、昔に比べれば慎重に書いていると思います。
昔は若かったこともあり、勢いだけで書いていた部分もあったかもしれませんが、この年になると一応は考えて、書いては削除して書いて、また表現を直して書いて・・・と、一応は時間をかけて書いています。まぁ内容によってはもっとライトに書いているのもありますけど、いざ書くとなると時間がかかります。表現するのは、難しいものです。
社会にアピールをしていくことは、ソーシャルアクションとして必要なことです。
しかしやり方を間違えてしまうと、全く意味がありません。青い芝の会の運動はかなり過激なものでしたが、当時としては唯一実行できたソーシャルアクションだったのでしょう。おそらく「先人たち」の1人であることは違いありません。
と言ってこの方法が今通用するか・・・は、また別問題ですね。
社会は変化していきますから、その変化に対応していかなければいけません。たしかにブログは現代において重要なメディアであるのですが、メディアをどのように使っていくかも、その人個人に問われるものだと思います。
ただ・・・ここで「あなた、障害者じゃないでしょ」って言われたら、もう何も言えません。
「障害のことをわかるのは、当事者自身だ」と声高に話す人も多いですが、それを言われてしまうと、健常者の発言は空気よりも軽く扱われるんだなって感じてしまいます。議論になりませんから。正直、自分も辛い思いをしましたから。まぁその辺の話は今回のとは別のことなので、特に触れません。気が向いたら。
なので、今回はあくまで個人的意見です。
とりあえず、一度ここでこの話は終わりにします。