リトル・プーリームのプラスティック・スリル・ブログ -29ページ目

リトル・プーリームのプラスティック・スリル・ブログ

テレビの低級化に抗し、マジで音楽を憂い、予言蔓延する世に悩み、
焦り多き家庭に困り、後悔伴う仕事に苦しみ、レーザー的に精密な
日本語の駆使に迷う中年男の見込み違いとニガリきった日々のアレコレ。


むかしから、それがもう、かなり昔から、

いちど読んでいらい、ずっと気になっているフランツ・カフカの超短編

「法の前で(Vor dem Gesetz)」って作品があるのだけれど、

ネット上でも

http://de.wikisource.org/wiki/Vor_dem_Gesetz

ここでなら原文を読めるのだが、

ちょっと難しい。


そこで、さらにネットを漁れば、おなじみの青空文庫に翻訳があるので、

http://www.alz.jp/221b/aozora/vor_dem_gesetz.html

ざっと目を通してみると、

しかしこれはまた、どこかヒドいような、こむずかしいような、奇妙珍妙な訳文、

というか、


独自路線なそのタイトルのせいもあり、困った気分にさせる代物なので、

正直なとこ、あまり参考にしたくない。


だから、


むしろ、おなじ青空文庫の、原田義人訳「審判」のなかの第9章、

http://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49863_41911.html

ここでの会話に埋め込まれた、

同内容のエピソードが、日本語としては読みやすいと思う、


が、が、やはり、すごく気になる箇所があって、原文で確かめたくなる。

(そういう箇所が、4箇所ほどあるのだ!!)


というよりも、まず、タイトルなんだよね~。


なぜ素直に、「法の前で」、と訳さないのか!?、とおもう。


いやはや、

光文社新訳古典文庫(丘沢静也訳)でも、

「掟の前で」となっているのだから、

なんとなくイヤな先例の踏襲というか、不可解な慣習、因習、旧弊、惰性、

そのようなものが、ふかく根付いてしまっているのであろうか・・・


まったく、

「掟」とは、古臭すぎる・・・とおもうのである。


Gleichheit vor dem Gesetz というコトバがあって、

これは、

「法の前の平等」(法の下の平等)っていう著名な法学上の概念で、

その「法の前」をそのまま使ってあると考えたほうが、

おもしろい。


だって、「法の前の平等」を享受できない、悲惨な主人公の話じゃないの?

コレは、


「ああオレだけ、なんでこんなことになるんだ」、と思いながら死んでいく主人公。

その悲劇性。



(たぶん、主人公の知らない別の門があり、そこでは誰もが、自由に、平等に、往来しているのだ。

それなのに、この田舎者の主人公だけが、選別され、足止めされ、不公平を強いられる。)



法の救済を受けられない人々の苦悩という問題は、いまでも

しばしばニュースになってとりあげられる現在的なテーマだよね・・・






NHKのニュースを見ていると、次から次に"偽ニュース”

あるいは"偽事件"と私が呼ぶことにしている

各地の「訓練」のようすを

まったりと放送する映像に

出くわすことが、近年とみに多くなった・・・ようだ

私の体感であるが。

(他方、民放の「ニュース」には、飲食店のメニューの話題が多すぎる)


「訓練」

と画面の端に表示されると、私はシラけ、知性の渇きを覚える。


世の中には、防災訓練なり、防火訓練なり、避難訓練なり、

さまざまな「訓練」が存在し、

これらが、毎日のニュース番組には欠かせないらしく、

間が持たない、

という事情があるのだろう(*_*)。

また「偽ニュース」か・・・と、呆れながら、にがにがしく

馬鹿馬鹿しい思いで眺めている日々だ。


"事件性"、"新奇性"、"ニュース性"の全くない退屈な話題で、

時間を費やす「報道」の現場とはなんだろうか?

そこには、ジャーナリスト精神というのはみじんもないではないか?


予告された「訓練」の時間に、いそいそと「取材」に行くことを繰り返しているのは、

ずいぶん、らくなことだろう。


そういえば、尖閣諸島の問題でも、度重なる中国軍の挑発的行動せいで、

自衛隊の「訓練」に支障が出ているらしい、と

ニュースで伝えられていた。

これも、きわめて滑稽で、面白い話である。

いやいやいや、かなり笑わせてもらった。むろん失笑である。


つまり、このところ、報道関係者には、事件性というものへの興味が失われ、

行政の一部と化して、「訓練がありました」旨を連絡することで

自足する、怠惰な脳みそしか見受けられなくなってきたのかもしれない。


それはともかく、

「訓練」ばかりが、立て続けにニュースとして扱われているのを見ると、

日本が、いかに平和で、何も起きない国であるか、

交通事故もなく、火事もなく、汚職もない・・・・・・

そんな現代日本のイメージがくりかえし強化され、

しみじみとした無感覚、あるいは、むなしい幻想へといざなわれてゆく。



最近、夜中はNHKラジオ第1放送を聴くことが多く、

まあ、ニュースが1時間おきに流れるから便利だ、というのが

理由の大半なのだけれども、

そのあいだに流れる番組も、つまらないなりに、耳をふさぎたくなる

ほどでもないから、よほど苛立ちを覚えないかぎりは

チャンネルを変えずに、我慢して、

聴き流しているわけだが、

ときどき、アナウンサーの声が、いかにも高齢の男女という感じで、

声フェチの俺にとって、かなりつらいものがあり、

つまり、口の奥のペチャペチャした唾の粘りつく感じをともなう発声が、

耳障りになることがある。

それはいいのだが、

(本当はよくないが・・・)

トーク番組のゲストに、え?誰なの?という人々を

平気で引っ張り出してくることが

NHKの特徴で、

それどころか、ど素人の海外レポーターに長話をさせる

機会も多く、

低コストだよなあ、これなら、と感じながら聴いていると、

ネット電話で中継しているんだかどうだか知らないが、経費節減も

ほどほどにしろよ!といいたい音質の悪さ、あのプツプツ切れる、

安い電話回線特有の不鮮明な音が、そのままラジオで

だらだら流されるのには、参る。

それで、俺のとりわけ嫌いなのは、トークのテーマで、

NHKが、頻繁に、「食」を俎上にとりあげるから、うんざりなのだ。

あたりさわりのない、

それでいて、地方色のある、

万人向けの、身近なテーマ、

あーうんざりだ。

退屈だ。

NHKにしてみりゃ「食」をテーマに時間稼ぎすれば、どこにも角が立たないという

思惑なのだろうけれども俺に言わせれば、人間の原始的欲求を、

ダイレクトに刺激する「食」のテーマは、じっさいには

下品きわまりない。

何かにつけ、「腹が減った」と思いたくないし、思わされたくもないのだ。


そもそも、動物的にみれば、食欲も性欲も同レベルのものであり、

他局、たとえばニッポン放送などで、延々幅を利かせる猥談・シモネタと、

どこか下品な点では大差がないのである。

むしろ、当たり外れのあるシモネタ(それは知的なものでもある)よりも、

かなりの高確率で生理的欲求を刺激する

「食」の話題には、有害さ、維持の悪さが潜んでいる。

それを、あっけらかんと持ちだしては、はしゃいでみせるNHKの姿勢は、

じつは、原始的で低俗だと思うのである。

いや、こうして不満を述べてみても、どうせ変わらないだろうし、

それならそれでいいのだが、

(本当はよくない・・・)

昨夜は、松浦寿輝がゲストに平野啓一郎をまねいて、

文学と音楽の交錯する場所を探るという知的な番組を流していたりもしたから、

こういうときには、満足と期待をおぼえつつ、

神妙な気持ちになり、

聴くのだ。

じっさい、短いながらも、それなりに聴きごたえはあった。

私自身にとっては、この2人とも、好き嫌いでいえば、

やや嫌いな作家たちである。

しかも、選曲がジャズとクラシックに傾きすぎていたので、いやはや、参った。

俺はジャズが嫌いなのだ。

「ジャズ=趣味がいい」の社会通念があるのか・・・・・・いや、違うだろ。

ジャズおきまりの定型が、うんざりなのだ。

あのベースの退屈な、ぼんぼんぼんぼんぼんぼんぼんぼんぼんぼん・・・(ダルい)

ドラムがほとんど装飾でしかないという、音作り(ショボい)

なんだろう、あれは。

マイケル・ブレッカーは、テクニシャン過ぎて心がないような音だけど、すごくいい

とか、セロニアス・モンクが、どっちかといえばヘタクソだけど、メロディで

説得力を持っている、とか、

フランク・シナトラは、別にめちゃくちゃ歌がうまいわけじゃない、とか、

レガート的な作家・松浦が、逆に、個々の音符の独立した存在感をもつ演奏に惹かれ、

平野がメロウな音楽を好むとかいった、対話の流れは、

それなりに楽しめたが、

全編にスノッブ的なものが立ち込めて、

お前ら、ヒップホップの1曲もかけないのか、と、

なんだかやけに視野の狭い連中だな、この2人は、

とシビアな感想を抱いたのも事実である。

ただし、右手のヒト、ショパンを否定・拒絶した

両手のヒト、グレン・グールドの、唯一のショパン演奏を

初めて耳にできたのは、意外性があって、よかった。