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no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

他人の悪夢を見るほど辛いことはない・・・


2つの自殺体。その共通項は、まるで悪夢を見たかのように、自分の胸や首を刃物で何度も刺して死んでいることと、最後にはケイタイ番号「0」と通話をしていること。警察はこの番号にリダイヤルし捜査をしようとするが、一方で他人の夢の中に入ることが出来るという特殊能力を持つ影沼(松田龍平)に捜査を打診する・・・。


他人の夢の中に入るって言うのは、最近では「パプリカ」と言うアニメ映画がありました。
パプリカは極彩色で明るかったんだけど・・・影沼は暗くて、苦しい。
しかし、このダークなキャラクターが松田龍平にぴったり合っている。一風変わった役といえば思い出すのはオダギリジョーだが、彼もこの路線でなかなかいけてる。


「こんな世界に生きている意味がない」
蔓延する自殺願望がずっしりと感じられる。まるで自殺願望が無い方がマイノリティであるかのようだ。
そこへ侵入する悪夢は、やはり「共感」なのかもしれない。
自殺したいけど、ひとりでじゃイヤだよ。
この世界への未練はないと思っているが、最期は誰かとの繋がりを求めてる。


自殺サイトなるものが存在する中で、こういう感覚は現実的に感じられる。
心の闇は多分誰にでもある。そしてその闇を映し出すのが夢なのだ。
「悪夢探偵」は他人の夢に入っていけるが、それは必ずしも解決に繋がらない。
それどころか「悪夢探偵」ですら自殺願望があり、苦しみを背負っている。


そういう、「なんだかリアル」な設定は理解できるのだが、リアルじゃないのが警察や霧島刑事(hitomi)の存在だ。お粗末感が否めない。特に霧島刑事は映画のキイになる人物なのだが、ものすごく強引な流れで影沼を巻き込み、自分が当事者になってゆく。そして悪夢のなかで、犯人とされるものと対峙するのだが・・・そもそも彼女は死にたいのか?死にたくないのか?彼女自身の抱える問題が曖昧なままだ。


そして、話の展開もさることながら、塚本監督がどうしても出演して欲しいと引っ張ってきたhitomiだそうだが、演技が・・・(苦)。全然敏腕刑事に見えないし、あんなミニスカで出てくるって一体・・・。


と言うことで、「悪夢探偵」キャラははまってたと思うけれど、第2弾はないでしょう・・・


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「娘が白痴だと知らされた日、自分は娘と一緒に死のうと思った。」


時は明治。富裕な家に生まれた筆子(常盤貴子)はフランス留学から帰国後、結婚、生まれた娘幸子は知的障がい児だった・・・。夫を早くに亡くし、娘を育てる傍ら、津田塾大学の創始者・津田梅子らとともに同じ時代に女子教育に携わった筆子は、やがて知的障がい児の施設を経営する石井亮一(市川笑也)と出会う。彼らは夫婦となり、共同で施設運営し、偏見に満ちた社会にありながら、無償の愛を子どもたちに与え続ける。・・・


「白痴」と言う言葉が私の中で酷くショッキングに響いた。


「何故、自分の子どもが?」筆子は夫の前で嘆く。
夫は優しく言う。「幸子が自分たちの子どもであることに変わりはない。自分はそれを恥じることはないし、変わらずに愛する」と。


親ならば、誰もが直面する大きな壁。
でも、筆子の以降の生き様は、障がいを持つ子どもの親であるからこそ、なしえたのではないか。
「何故、自分の子どもが?」
逆に言えば、「この母」だからこそ、幸子は生まれてきたのではなかろうか。


筆子自身は、夫に先立たれ、3人の娘も知的障がい児で若くして亡くなるなど、自らの家庭においては決して恵まれたとは言えない。
さらには、施設の火災で子どもを数人亡くし、また戦争という困難な時代のなかにあって、石井にも先立たれ、教え子が戦死してゆく・・・


何故、そこまで無償の愛を子どもたちに与え続けることができたのだろうか。
・・・子どもたちから、それ以上の愛を受け止めることに喜びを感じる、「心」があったからではなかろうか。
母親と言うだけではなく、教育者としての「心」。


私は、教育に携わったことは無いので、教育者と言うよりも、「自分の生んだ子どもが障がいをもっていたら・・・」と言う「母親」の目線で観てしまっていた。
自分はちゃんと育てられるのだろうか?
率直に言って、自信はない。


でも、筆子たちによって築かれた障がい児教育や福祉の基礎をさらに拡充し、もっと安心して子どもを産み育てることのできる社会を作ることが出来たなら・・・と、真に願う。


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地元山形で行われた05国際ドキュメンタリー映画祭にも出品されていたそうだが、全然知らなかった。と言うか、私自身ドキュメンタリーが苦手な部分があって。でもこれは観なくちゃいかん!と思い観てきました。


映画は静かに始まり、終わる。原題は「Darwin’s Nightmare」。


舞台は人類発祥の地ともされるアフリカ。ビクトリア湖のほとりのタンザニアの町は「ナイルパーチ」という魚を捕獲し、加工し、ヨーロッパに輸出することで成り立っていた。そもそもナイルパーチはビクトリア湖には存在しなかったが、誰かがそこに放流したのだろう。肉食のナイルパーチは他の魚たちを食いつくし、湖の豊かだった生態系が一変する。ナイルパーチに依存する町にもたらされたのは富とは無縁の、劣悪な環境、貧困、暴力、売春、エイズ、ドラッグ、ストリートチルドレン・・・負の連鎖であり、悪循環であった。


ひとつの生態系が狂ったことで、人間の社会も狂わされてゆく。
ナイルパーチが悪いわけではない。
その背後には必ず人間の手があるからだ。
そして、哀しいかな、人間社会の弱肉強食もまた人間が作り出しているものだ・・・。
なんのために?
自分たちが富を手に入れるため。安定を維持するため。
それは、どこかで戦争がないと食っていけない武器商人と同じなのだ。


「勉強したい」と語る人々。しかし、彼らはストリートチルドレンだったり、売春婦だったり、夜警員だったりして、その希望からは程遠いところにいる。安定した金が欲しければ軍隊に入るしかない。しかし戦争が無いから軍にも簡単には入れない。戦争が起きれば利益を生むと思っているのは、武器商人だけじゃなかった。


ヨーロッパから来る飛行機には何が積まれている?飛行士たちは、計測官たちは・・・「武器・弾薬」と知りながら「知らない」と言う。ヨーロッパが武器を与え、アフリカに紛争を起こさせている。わかっていながら止められないこの連鎖。
何故か?食っていかなきゃいけないから。自分が生き残るためには・・・


ダーウィンの進化論は正しい。
強いものが生き残って、繁栄してゆく。
ただ、それが人間の文明社会にも当てはまるとは、ダーウィン自身考えていたのだろうか。
人間には、それを回避する、共存する知恵があると思っていたのではなかろうか。
しかし・・・やはり人間も生態系の中のひとつの種であって、進化論にてらせば、強いものだけが生き残り、そしてその驕りはやがて自らの種を滅ぼすだろうのだろうか。


いや、わかっているなら、この状況を止められるはず・・・と思いたい。


私たち人間は、共存することは出来るのではないのだろうか?


それとも、それも驕りにしか過ぎないのだろうか。



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家族の分だけ、物語がある。


「おまえんち、ひょっとしてものすごい不幸なの?」ってハタから見ればそんな感じの中村家。佐和子(北乃きい)の父は父であることを辞め、母は家を出て、兄は「天才」と呼ばれながら大学には行かず農園に通う。そんな家庭を切り盛りする佐和子は受験を控える中学3年生。そして佐和子の前に転校生の大浦(勝地涼)、そして兄の恋人が現れ・・・


家族にしか出来ないこと
他人にしか出来ないこと


それぞれあると思う。
そして、「自分にしか出来ないこと」も。


いつしか自分に出来ることのキャパを越えてしまってることに気付かない人間たち。
無理するのをやめたときに、解放され、傷つき、そして分かることもある。
「お前は、お前の気付かないところで守れられてるんだよ。」


自分が「こんなに幸福でいいのかな?」っていう絶頂から突き落とされる。
この気持ち、どうしたらいいの?
どうやったら悲しみは癒されるの?
そこへ、ズカズカ踏み込んでいく兄の恋人、小林ヨシコ。


大浦くんや小林ヨシコという「他人」がいい味を出している。
大浦くんは、「ああ、こういう気の回りすぎる人っているよなあ、こういう人って長生きしないタイプだよなあ」なんて思って観ていた。あの流れも読めてしまったし。でも、彼の真剣な気持ちにはほろりとさせられる。


小林ヨシコ(さくら)はそれこそ「なんだこの人?」って感じなんだが、意外と「わかってる」。彼女こそ謎に包まれてるが、それはそれでいいのだろう。シュークリームで許せてしまえる不思議な人。


「朝食は家族全員で」。
久しぶりに揃う家族4人の食卓。それがその家族の幸福ならば、それでよいのだ。



P.S.
大浦くんの新聞配達は、映画「いつか読書する日」の牛乳配達をする田中裕子をちょっと思い出した。



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いわゆる「記憶」モノの新しい形なのでしょうか。


使われていない密閉された工場の中に、記憶喪失になった男が5人。そのうち3人が強盗犯、2人が被害者ということがわかる。縛られている人間、銃で撃たれている人間、顔を殴打された人間・・・。自分はどっち側なのか・・・?そして、この工場から脱出できるのか?


最初、倒れている人間を見て「SAW」と似てるのかなと思ったのですが・・・

全体的に緊迫感が無かったなあと言うのが正直な印象です。

「何故自分たちがここにいるのか→どちら側なのか→疑心感、探り合い」と言う流れなのでしょうけれども、それが不自然。

まず、限られた情報だけで、「事件」の全貌をつかむことが出来るかってとこもありますし、それが本当に自分たちのことなのか?ってそもそも確信できるのか。

そして、小道具がやたらありすぎる。人間関係の駆け引きが薄い。5人と言う人数が多すぎたのかもしれないですね。5人のキャラがはっきりわからないままなのです。

また、完全な密室劇ではないというところも緊迫感を欠いてるかな。警察の動きなどどうでもいいようなシーンも多用されてますし・・・


ただ、人間の記憶と言うものがどこまで当てになるか?と言うところを観ると、なかなか面白いとは思います。時折訪れるフラッシュバックのように蘇るイメージが記憶なのか、記憶自体が正確なのか、記憶だとしてもそれはいつの時点なのか。・・・

個人的には、記憶なんて結構曖昧なものだ、と思います。(トシのせい?)


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