強烈な体験とか、人生の節目とか、この世に生を受けてからいろんな時間を過ごしてきた中で、忘れられない出来事って誰しもあると思います。
俺もたくさんあります。
ただ、そんな数ある記憶の中で、別に体験とか節目とか全然そんなんじゃないのに、すっごく色濃く自分の中に残っている記憶があります。
今回はその話をしようと思います。
あの時は確か小学生くらいで、学校から帰ってきて、実家のこたつで寝ながらテレビを見てました。
確か5chのスーパーJチャンネルだった気がします。
14時頃からやってる相棒が終わって、17時頃からやるニュース番組。
作家の村上春樹さんが賞を取ってスピーチをしてました。
「固く高い壁とそれにぶつかって割れる卵、私は卵の側に付く。たとえ壁が正しくて、卵が間違っていても、私は卵の側に付く。」
実際は英語でスピーチしてました。字幕でこんな感じの訳がついていたと思います。
前後の内容はあんまり覚えていませんが、この文章だけは十何年間ずっと自分の頭の中にありました。
不思議でした。
「正しいなら壁の側に立っていいだろ。」
「間違っているなら卵の側に立っちゃダメだろ。」
そんな風に思いました。
当時は小学生でしたし、自分なりの正義感とか勧善懲悪というわかりやすい構図への憧れとかがあったので、理解できないし理解したくないな〜なんて思ってました。
まあただ別に誰かに話すでもなくて、なんであんな風に考えるんだろうってのをホントたまに思うくらいで、ただこの文章を忘れることはなく、ふとした時に不思議に思いながら、深く考えず流して、みたいなのを大学生になるまで繰り返してました。
今ならわかる気がします。
大学4年の時と社会人になってから、大切な人たちがやられちまう出来事が数回ありました。
社会とか会社とか業界とか通例とか、そんな感じのものにやられてました。
大きな敵ではありますが、多くの人はやられずにうまくやっていっている存在でもありますから、一概に悪とは言えないものです。
むしろ、誰かから見たらそのやられちまった人達が弱くて、そんなんで打ち砕かれるその弱さこそが悪である、だなんて言われてもその意見にある程度支持が集まるのではないかとも思います。
ただ、やっぱり俺にとって大事なのはその友人たちです。
会社や組織側から見たら正しいとされる要求も、それを知らない俺からしたら友人たちの幸せの方が大事です。
いくら社会を支える重要な仕事に従事していたとしても、1人の大切な友人が打ちのめされるくらいなら、「頑張らなくていい」って言わなければいけないと思っています。
多分、壁と卵の話もこんな感覚なんだと思います。
本人ではないので正しい解釈かはわかりませんが。
多分この壁と卵の話は一生自分に付き纏う気がします。
両親の背中とこの話は就活で言うところの強烈な原体験です。
卵の側に付くにはそれなりに力が必要だと思います。
だから頑張ります。
魂に寄り添える人間でありたいと思います。