金曜日の午後、打ち合わせを終えた帰り道。
春の終わりのやわらかな風が、松本はネクタイを揺らしながら。
いつもなら会社に戻るところを、少し遠回りして駅まで歩いた。
「このへん、あまり歩かないんですか?」
隣には、偶然同じ方向だった彼女の姿があった。
「うん、たまにはいいかなって」
松本がそう答えると、彼女は小さく笑った。
道の途中、小さなカフェの前を通りかかる。
「ここ、前から気になってたんですよ」
彼女がそう言うと、松本は一瞬迷ってから言った。
「…少し寄っていきますか?」
そのカフェは、午後の陽射しが静かに差し込む落ち着いた空間だった。
テーブル越しに向き合って、
コーヒーを飲みながら、取り留めのない話をした。
家のこと、仕事のこと、子どもの話。
彼女は終始、穏やかな笑顔だった。
帰り際、カップの縁に口をつけながら、ぽつりとつぶやいた。
「松本さんって、何か…あたたかいんですよね」
その一言に、松本は少し言葉に詰まった。
ただ、「ありがとう」とだけ返した。
帰り際、駅のホームで立ち止まったふたり。
周りには人がいた。
けれど、なぜかその一瞬だけ、世界が静かになったような気がした。
「じゃあ、また」
「はい。…また、お会いできたら」
それっきり、彼女と仕事の関係で顔を合わせることもなくなった。
年度末の異動があったことを後から人づてに聞いた。
駅のホームに立つたびに、あの日の会話をふと思い出すことがある。
ほんの少しだけ、心があたたかくなる。
それが何だったのかは、今もわからない。
ただの気のせいだったのかもしれない。
けれど——あの時間は、たしかにそこにあった。
『少しだけ心に触れた気がした』
ー終わりー
