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江戸時代の初期、徳川家康の命により堀川の開削に当たったそうです























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江戸時代の初期、徳川家康の命により堀川の開削に当たったそうです























僕の小さい頃、両親は自宅の外で自営で働いており、同居する祖母は一風変わった人で孫の面倒を見るような人ではなかったので、自動的に祖父に面倒を見てもらう事が多くなりました。
祖父は年を取ってもとにかく身体が丈夫で、体を動かして働く事が好きであり、駐車場の管理人や学校の用務員として働き、その他にも畑を借りて作物を作っており、そうした先に僕も自転車の籠に乗せられて連れて行ってもらいました。また僕が小学生になると挟み将棋や軍人将棋などでも遊んでくれました。祖父の印象はとにかく穏やかで落ち着いた人で、厳しいという事もありませんでした。(僕の方でも怒られたりしない様に慎重に行動していた面はあったと思います)


その頃、風呂のある家はガス風呂釜を使うのが一般的でしたが、僕が小学5年の時に家の一部を建て替えるまでは、薪で家の風呂を焚いており、薪割りはすべて祖父の仕事で、風呂を焚くと薪が燃える香りと音とで、今考えますと大変贅沢で風情のあるものでした。(祖父と一緒に随分と風呂にも入れてもらいました)
祖父の口癖というか良く言われた事は、「(僕が)大きくなったら東京に連れて行ってやる」という事と「殺生をしてはいかん」という二つでした。後者については、仏教の殺生戒の事は子供でも何となくは知っていたので「仏教の信心が篤い人なんだなあ」という当時の印象でした。祖父は新聞以外の活字はほぼ読まない人でしたが、亡くなるまで「大乗」という仏教雑誌を購読しており、毎夕仏壇の前で読経をし、また近くの寺へ法話や講話を聴きに行っていたようですが、そこへ僕を連れて行く事はありませんでした。
僕は子供の頃、昆虫や魚などの小動物を捕まえて来ては観察するのが好きで、飼うにも知識も情報も無く結果的に随分と死なせてしまいましたが、それについて祖父が何か言う事は無く、また、祖父も魚などは普通に食べ、近くの害虫は普通に叩いて潰していました。今思うと、ソ連で亡くなった甥の事や、決して少なくなかったであろう戦争で亡くなった軍隊当時の知り合いや親戚、知人の事が念頭にあったのではとも思うのですが、真意を知る術はありません。(アルバムには、祖父との関わりは分かりませんが、特攻隊員慰霊の新聞記事が貼ってありました)
僕が小学4年のある日、祖父がいつになく興奮した様子で帰って来て、僕に一冊の本を手渡しました。

その翌日の告別式の後だったと思いますか、それまで元気に喋っていた祖母がふと眠るようにソファに横になったかと思うと、やはり脳卒中であっと言う間にあの世に旅立ってしまいました。通夜告別式で大変多くの人が集まって、興奮し血圧が上がったのかもしれませんし、やはり50年以上連れ添った相手が亡くなったショックもあったのかと思います。祖父は81歳、祖母は75歳になる直前でした。祖父母が一度期に亡くなった後、家の中が火の消えたように静かに寂しくなったのをよく覚えています。
考えてみますと、祖父は下士官で終った事と年齢との関係で太平洋戦争時に軍に再召集される事はありませんでしたが、もしも、狭き門ながら兵曹長(准士官)→特務士官(士官並ではあるがエリート士官とは厳格に区別された)のコースを歩んでいたら太平洋戦争に動員された可能性は高かったとみられます。(また祖父と同年代でも上級学校を出て海軍士官となられた方々は太平洋戦争後半期に艦長クラスとなって非常に多くの方が戦死されています)
一方、私の父親は徴兵年齢となる直前で戦争が終ったため兵隊に取られる事はありませんでした。戦争体験世代の方々が生き延びられたかどうかは、人の力を超えた偶然の巡り合せだったとしか言いようがなく、伊勢湾台風という大災害はありながらも祖父が穏やかな老後を過ごせたのは、適切な表現かは分かりませんが幸運であったと言えるのかもしれません。
今回、父方の戸籍を調べてみて、祖父の二人のお兄さんが共に子沢山であった為、曾祖父の曾孫としては、私や従兄姉を含めて地元や名古屋、東京などにおそらく30名以上となり、その下の世代は・・などと考えていくと、遺伝子、血縁の不思議というものを感じざるを得ません。
祖父や私の父方の御先祖が暮らした輪中の村は、江戸時代に開発された新田であったそうなので、その歴史を今後は調べてみたいと思っています。
