masahiro's blog

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All the lives are just like bubbles being floated down a river.

(5月)

滋賀県の山 

グーグルレンズによると、ジャケツイバラ(蛇結茨)という植物のようです

ヒメジョオンの方でしょうか


(6月)

ベランダのワイルドベリーに小さい実が付きました

(7月)

桑名市 春日神社

(8月)
同じく 石取祭



名古屋市堀川の福島正則像

江戸時代の初期、徳川家康の命により堀川の開削に当たったそうです



三重県北部の高松海岸
今年の夏も連日の35度超えで辟易しました

(9月)
木曽三川公園のキバナコスモス



(10月)
桑名市内

(11月)
東員町のコスモス




桑名市 九華公園


四日市市垂坂山のイチョウ
この一帯にはかつて天台宗寺院の観音寺が広大な寺域を誇っていたそうですが、織田信長の北伊勢侵攻により焼失し、江戸時代元禄年間に桑名藩主によって再興されました


アメダス四日市特別地域気象観測所
森に囲まれた南部丘陵公園の小高い丘の上にあります(風通しが良さそう・・)
工場とアスファルトに囲まれた桑名の観測所の環境とは大違いで、真夏の気温観測値の違いも、さもありなんという気が・・


11月下旬、某サイトで中部地方の紅葉名所第3位になっていた四日市市の水沢もみじ谷(宮妻峡)を初めて訪れました
山の上部に深い谷が刻まれていて興味深い地形でした










月末の30日、稲沢市のそぶえイチョウ黄葉まつりに出かけました


愛知県なので公共施設が豪華です
上は祖父江の森温水プール
・・立派です

こちらは
祖父江の森図書館
・・立派です
(中の設備や閲覧席も非常に綺麗でした)

(12月)
岐阜県海津市の木曽三川公園

以上、今年の振り返りでした
御覧頂きありがとうございました

堤防の猫

皆様、良いお年をお迎えください











2025年も残り僅かとなりました。毎年恒例の一年を振り返る投稿です。この数年同じような写真ばかりとなっておりますが、どうか御容赦下さい。

(1月)

伊勢湾です


(3月)
桑名市内の河津桜




(4月)
毎年見に行く鍋田堤の桜





桑名市内


北勢中央公園



滋賀県内の菜の花畑

東近江市 野々宮神社御旅所



レンギョウの花


再び桑名市内






名古屋市 戸田川緑地公園のネモフィラ




北勢中央公園




昼間の戸田川緑地














4月下旬、藤まつり開催中の津島市天王川公園を訪れました
ここ何年か、藤の花にやや元気がないように感じていたのですが、今年は非常に綺麗に咲いていました







桑名市 九華公園


後半に続きます

僕の小さい頃、両親は自宅の外で自営で働いており、同居する祖母は一風変わった人で孫の面倒を見るような人ではなかったので、自動的に祖父に面倒を見てもらう事が多くなりました。


祖父は年を取ってもとにかく身体が丈夫で、体を動かして働く事が好きであり、駐車場の管理人や学校の用務員として働き、その他にも畑を借りて作物を作っており、そうした先に僕も自転車の籠に乗せられて連れて行ってもらいました。また僕が小学生になると挟み将棋や軍人将棋などでも遊んでくれました。祖父の印象はとにかく穏やかで落ち着いた人で、厳しいという事もありませんでした。(僕の方でも怒られたりしない様に慎重に行動していた面はあったと思います)

祖父は家の台所に立つという事はほとんど無く、調理(飯炊き)の仕事は生活の為の手段という要素が大きかったように思えます。(今思えば正真正銘の海軍カレーを食べてみたかった気もしますが・・)

こちらは昭和20後半か30年代前半頃の旅行先での写真で、祖父は蝶ネクタイを着けてますが完全によそ行きで家では夏は褌一丁でいるような人でした。この時代は一般庶民の女性も男性も外では非常にお洒落な格好をしていて驚かされます。

これもまだ60代頃の写真のようですが、僕の中ではこの様な角の取れた人のイメージでした


その頃、風呂のある家はガス風呂釜を使うのが一般的でしたが、僕が小学5年の時に家の一部を建て替えるまでは、薪で家の風呂を焚いており、薪割りはすべて祖父の仕事で、風呂を焚くと薪が燃える香りと音とで、今考えますと大変贅沢で風情のあるものでした。(祖父と一緒に随分と風呂にも入れてもらいました)


祖父の口癖というか良く言われた事は、「(僕が)大きくなったら東京に連れて行ってやる」という事と「殺生をしてはいかん」という二つでした。後者については、仏教の殺生戒の事は子供でも何となくは知っていたので「仏教の信心が篤い人なんだなあ」という当時の印象でした。祖父は新聞以外の活字はほぼ読まない人でしたが、亡くなるまで「大乗」という仏教雑誌を購読しており、毎夕仏壇の前で読経をし、また近くの寺へ法話や講話を聴きに行っていたようですが、そこへ僕を連れて行く事はありませんでした。


僕は子供の頃、昆虫や魚などの小動物を捕まえて来ては観察するのが好きで、飼うにも知識も情報も無く結果的に随分と死なせてしまいましたが、それについて祖父が何か言う事は無く、また、祖父も魚などは普通に食べ、近くの害虫は普通に叩いて潰していました。今思うと、ソ連で亡くなった甥の事や、決して少なくなかったであろう戦争で亡くなった軍隊当時の知り合いや親戚、知人の事が念頭にあったのではとも思うのですが、真意を知る術はありません。(アルバムには、祖父との関わりは分かりませんが、特攻隊員慰霊の新聞記事が貼ってありました)


僕が小学4年のある日、祖父がいつになく興奮した様子で帰って来て、僕に一冊の本を手渡しました。


それは当時、総理大臣に就任したばかりの田中角栄さんの自伝でした。角栄さんは、農民出身、小学校卒で首相になったという事で「今太閤」とも呼ばれ、就任時には「角さんブーム」が世に沸き起こっていました。僕は当時、テレビ画面に出て来る政治家としては、真面目一徹、絶対に冗談を言わなそうな社会党の成田委員長のファンで、角栄さんの事は好きでも嫌いでもなかったのですが、祖父が折角買ってきてくれた本なので早速読んでみました。

本の内容も割と淡々としていて、共感したり感動したりという事もありませんでした。祖父が角栄さんに共感したのは、小学校卒で農民出身という他に角栄さんが陸軍二等兵として兵隊の苦労を経験されていた事もあったと思います。(それまでの総理になる方は官僚や一流大学出身などエリート層の方達ばかりで二等兵経験者はまさに異色でした)

祖父のいた海軍は陸軍とは比べ物にならない「身分制社会」で、水兵出身者はエリート士官とは徹底的に区別差別されたそうで、祖父も、今も国家公務員のキャリア制度として残っているような、そうした悲哀を感じた事は一度や二度ではなかったと推察されます。(特に、自分より年下の若者が次々に上官としてやって来るのはキツかったろうと想像できます)

もっとも、角栄さんが上級学校に進めなかったのは、角栄さんの父親が偶々事業に失敗した事が大きく、その後、一時は海軍兵学校への進学準備を進めていた事も注目されます。また私が注目するのは、角栄さんの祖父、捨吉さんが農業の傍ら宮大工を営んでおられた事で、宮大工という職業は仲々一代でなれるものではなく、代々そうした仕事、知識を受け継いでおられたと考えるのが自然と思われます。(因みに角栄さんの御祖母様は庄屋の娘さんだったそうです)

そうすると宮大工として必要な緻密な数学物理学的能力、職人を差配する人心掌握力、総合的な管理統率能力、建築土木に対する強い志向などが角栄さんに受け継がれたのは何の不思議も無く、角栄さんが自身の身体的労働以外に頼る物の無い無産の「庶民」であったとは言い難いように私には思われます。


又また話が逸れましたが、戦後、祖父は団体で(祖母は伴わず)旅行する事が大好きだったようで、旅行先での記念写真が何十枚も残っています。僕も祖父から様々な観光地の土産、菓子などを貰った記憶があります。元の職場、老人会や自治会の旅行もありましたが、特に、郷里の輪中の村で纏まって行く旅行が多かったようで、これは祖父が農協に勤めていた関係かもしれませんが、戸籍書類を見ても村の中同士か近隣の輪中間で夫婦の縁組が為されたケースが多く、村中が親戚と言って差支えない強い結束の下に昭和以前の農村(特に輪中)はあった事が窺えます。


僕が中学2年の冬のとても寒い夕方、祖父が外から自転車で帰って来て好きなテレビの相撲中継を付けたと思った瞬間、祖父の身体が急に畳の床に倒れ込みました。体の片側半分がまったく動かせないようで、ただ事ではなかったので、すぐ親に連絡して、お医者さんにも来てもらいました。脳卒中という事で今の時代なら救急車で即入院となる所ですが、昭和の時代は医学的な対処法も無かったのか、家の中に布団を敷いて祖父を寝かせ様子を見る事になりました。結局、祖父は鼾をかいて眠ったような状態のまま約一週間を過ごし、そのまま帰らぬ人となりました。
(お金に欲の無い、勤勉で実直な庶民としての立派な一生だったと思います(感謝))

通夜の晩は、狭く暗い木造二階建ての家の中に本当に足の踏み場も無い程、多くの方が集まって下さって賑やかと言えば賑やかだったのですが、多くは僕がそれまで一度も見た事も無いような方達でした。今考えてみますと祖父の甥や姪だけでも十数名、その御連合いや、近い親戚数十名に加えて知り合いの方々も多く集まって頂いたのだと思います。

その翌日の告別式の後だったと思いますか、それまで元気に喋っていた祖母がふと眠るようにソファに横になったかと思うと、やはり脳卒中であっと言う間にあの世に旅立ってしまいました。通夜告別式で大変多くの人が集まって、興奮し血圧が上がったのかもしれませんし、やはり50年以上連れ添った相手が亡くなったショックもあったのかと思います。祖父は81歳、祖母は75歳になる直前でした。祖父母が一度期に亡くなった後、家の中が火の消えたように静かに寂しくなったのをよく覚えています。


考えてみますと、祖父は下士官で終った事と年齢との関係で太平洋戦争時に軍に再召集される事はありませんでしたが、もしも、狭き門ながら兵曹長(准士官)→特務士官(士官並ではあるがエリート士官とは厳格に区別された)のコースを歩んでいたら太平洋戦争に動員された可能性は高かったとみられます。(また祖父と同年代でも上級学校を出て海軍士官となられた方々は太平洋戦争後半期に艦長クラスとなって非常に多くの方が戦死されています)

一方、私の父親は徴兵年齢となる直前で戦争が終ったため兵隊に取られる事はありませんでした。戦争体験世代の方々が生き延びられたかどうかは、人の力を超えた偶然の巡り合せだったとしか言いようがなく、伊勢湾台風という大災害はありながらも祖父が穏やかな老後を過ごせたのは、適切な表現かは分かりませんが幸運であったと言えるのかもしれません。


今回、父方の戸籍を調べてみて、祖父の二人のお兄さんが共に子沢山であった為、曾祖父の曾孫としては、私や従兄姉を含めて地元や名古屋、東京などにおそらく30名以上となり、その下の世代は・・などと考えていくと、遺伝子、血縁の不思議というものを感じざるを得ません。


祖父や私の父方の御先祖が暮らした輪中の村は、江戸時代に開発された新田であったそうなので、その歴史を今後は調べてみたいと思っています。