諸資料によると、森山鋭一さんは、小さい頃に森山家に養子として迎えられ、三重県立第二中学(後の富田中学→四日市高校)、旧制八高を経て、大正八年に東京帝国大学法学部独法科を卒業、内務省に入省して土木局に配属、その後、埼玉県理事官、帝都復興院事務官、法制局参事官、行政裁判所評定官、法制局第一部及び第二部長、企画庁常任参与などを歴任して昭和16年に法制局長官に任ぜられました。(同年には最近も話題となった総力戦研究所の参与を務められていたようです)
法制局長官としては昭和19年7月までの在任でしたが、昭和18年には貴族院勅選議員に任命され、こちらは昭和21年5月まで務められました。同年8月にはGHQの方針に基づき公職追放となり(後に解除)、追放の間は桑名市で弁護士として活動されたそうです。そして昭和31年6月、東京都内で亡くなられました(享年六十一)。
このように大変立派な地位・経歴の方が、祖父の「お兄さん」だったというのは、俄に信じ難い程の驚きを覚えますが、一方で、この方と祖父が戸籍通り「実の」兄弟であったとはどうも考え難い、以下に述べるいくつかの疑問点が存在します。
① 「長島町誌」の記述
「長島町誌」の中で、著者の伊藤重信さんは、鋭一氏について「父森山兵介の養嗣子であるが、実は兵介の実子の筈である」と述べられています。この記述内容が事実であれば、森山家の実子を何らかの事情で他家(と言っても娘さんの嫁ぎ先)からの養子として届け出たという事になります。
② 顔が似ていない
以前の記事の祖父の写真と比べて頂ければ判りますが、祖父は顎ががっしりした四角い顔で鋭一氏のやや細面の顔とは骨格がかなり違います。また目鼻立ちも似通ってはおらず、鋭一氏の眉毛はかなり特徴的ですが、これも祖父とは大分違うようです。さらに祖父の上の二人のお兄さんの写真とも比べてみましたが、二番目のお兄さんはやや細めの顔ではありますが、鋭一氏の薄めの顔立ちとは違って彫りの深い顔で、やはり似ているとは言えないようです。
③ 聞いた事がない
戸籍上他家に養子に出され、その後一時は公職追放になったとはいえ、そんな立派な方が近い親戚にいれぱ、親戚内で話題に出たりする筈で、「こんな立派な人が親戚にいるのだから見習って良く勉強しなさい」などと言われそうですか、そんな事も一切無く、そういう方の存在すら聞いた事がありませんでした。
④ 優秀すぎる
森山鋭一氏はある程度経済的に余裕のある家で育って高等教育を受けることができ、出世をされましたが、今の東京大学法学部を出て高等文官試験に合格し官僚としてもかなりの栄達、昇進をされたという事は、やはり博覧強記の極めて優秀な頭脳をお持ちであった事に間違いなく、その血族にも、そうした遺伝子は受け継がれるように思いますが、どうもそこまでの形跡は私の周辺に見られないように思います。
(私自身の話で恐縮ですが、私も何かの因縁か、国家公務員I種試験を二度受け、その準備として人生唯一と言って良い程必死に勉強もしましたが最終合格は出来ませんでした。)
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ただ、上記のように森山鋭一氏が祖父の実兄(私から見て大伯父、即ち4親等)ではなかったとしても、私の曾祖母(と言っても何と安政五年生まれで大正元年に亡くなっているので非常に遠い存在です)は森山家からお嫁さんで来た人なので、曾祖母とその兄弟(おそらく鋭一氏の父兵介氏)を通じて祖父の従兄(私から見て6親等)であった可能性は大いにあると判断されます。
曾祖母の父(私からは高祖父)兵八さん(おそらく天保年間以前の生まれ)の戸籍記録は残っていないようですし、養子届出の事情を知る方も、もういらっしゃらない可能性が高く、これ以上の調査は難しいように思われます。
このように、激動の時代に国の枢要部で要職を占めた方が実はかなり身近な縁者の中に居られたという事が、色々と調べていく中で明らかになったというのは大変感慨深いものがあります。





























































































