ファーストタイガー製 本人使用済みです。
平成16年(2004年)10月24日 「ウルティモ・ドラゴン The Final Challenge」後楽園ホール 初代タイガーマスク、三代目タイガーマスク、四代目タイガーマスク組対獣神サンダー・ライガー 、ウルティモ・ドラゴン、ザ・グレートサスケ組戦でオーバーマスクとして本人使用。
直筆サイン入り(ザ・マスク・オブ・タイガーと初代タイガーマスクと二ヶ所)。
第14代王者ドスカラス・ジュニアが所有していた本物。
2007年7月8日、アレナコリセオにてウニベルソ2000を敗り、第14代チャンピオンとなったドスカラス・ジュニアが保有していたもの。
ベルトのバックルの裏側に本人のサイン(2008年)。
在位期間2007年7月8日~2008年12月22日。
メキシコ製メーカー不明
全長約1,170mm。
重量約3.6kg。
ストラップ本革。
収納袋無。
刻印無。
CMLL(Consejo Mundial de Lucha Libre)は、メキシコのプロレス団体。
CMLLの活動中心はメキシコシティでアレナ・メヒコでの定期興行が有名である。かつてはEMLL(Empresa Mexicana de la Lucha Libre)と呼ばれていた。今日現存するプロレス団体において世界最古の歴史を持つことが特徴である。
1933年、EMLLとして設立。9月21日、アレナ・メヒコにて興行が開催されたのが団体の興りである。旗揚げ戦にはヤキ・ジョージ、ボビー・サンプソン、シクロン・マケイ、レオン・チン・アチウが参加。しばらくはアメリカから選手を呼び寄せて興行を行っていたが地元選手の育成が急務と判断したサルバドールは柔術の心得のある友人のゴンザレス・アベンダーニョ・アギーラルを呼び寄せてアレナ・メヒコでルチャリブレ教室を開校して、これが後のルチャリブレの基盤となっているという。
1931年、サルバトール・ルタ・ゴンザレスがアメリカとメキシコの国境にあるエルパソでプロレス興行を見たことからメキシコでのプロレス興行を企画してメキシコシティの廃墟同然のボクシング会場「アレナ・モデロ」と賃貸契約を結び会場を修復して会場名を「アレナ・メヒコ」に変更。
1934年、アベンターニョの教え子たちがデビューして純国産のルチャドールが誕生。ほどなく観衆は増えて500人ほどのキャパシティしかない初代アレナ・メヒコは手狭でボクシング会場「アレナ・ナショナル」や闘牛会場「レオ・デ・コンデザ」にも進出している。
1940年、後にWWWA世界女子王座の創設者であるミル・レッドバーグも来墨している。
1938年、サルバドールが個人的に買った宝くじに当選して、その当選金を自社所有会場の建設に着手。
1943年、自社所有会場「アレナ・コリセオ」が完成。
1954年10月、アレナ・メヒコの改築工事にも着手(1956年に完成)。この時期にタルサン・ロペスが台頭すると1942年にデビューしたエル・サントを始め、カベルナリオ・ガリント、ゴリー・ゲレロ、ブルー・デモン、ブラック・シャドーなども台頭して1940年代から1950年代にかけて最初の黄金期を迎えることとなる[1]。この頃はメキシコにはEMLL(CMLL)しか団体が存在しなかったため、ルチャリブレといえばEMLL、EMLLといえばアレナ・メヒコであったため、大衆からはルチャリブレやEMLLではなく「アレナ・メヒコ」と呼ばれることが普通だった。また、同時期にはNWAにも属してNWA加盟時に管理、運営を任されていたNWA王座のライトヘビー級王座、ミドル級王座、ウエルター級王座を一任された。
1975年、UWAが旗揚げされてEMLLの独裁状態に嫌気が差した選手達が大量離脱したため、大打撃を受けた。1980年代はUWAの影に隠れるような停滞期に突入していた。
1990年、メキシコでは禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁となり、地元テレビ局テレビサによるEMLLの中継番組の放送が開始された。テレビ放送開始にあわせて企画部長のアントニオ・ペーニャによってマスカラ・サクラダ、ミステリオッソ、ボラドールなどの新キャラクターが誕生して入場演出を豪華にするなど改革を行い、ルチャリブレはテレビを通して爆発的なブームとなった。同年、CMLL女子部を立ち上げた。
1992年、アントニオ・ペーニャが独立してAAAを設立して業界のトップに躍進。しばらくはアレナ・メヒコの集客が閑古鳥が鳴くほど悲惨な状態となるがテレビ中継による放映権料と自前の会場による最低限の経費でこの危機を乗り切り、1995年、AAAを離脱したルードにターンしたエル・イホ・デル・サントを獲得してネグロ・カサスの抗争で人気を博した。
2005年、ミスティコ(初代)がデビューし大人気となり、ドクトル・ワグナー・ジュニアらを加えたメンバーにより団体は人気を取り戻してアレナ・メヒコに大観衆が詰めかけるようになった。そして、この頃に団体名をCMLLに統一。
現在の社長はゴンザレスの孫であるパコ・アロンソで1980年に就任。
CMLL世界ヘビー級王座は、メキシコのプロレス団体であるCMLLが管理する王座である。
Wikipediaより
イグナシオ・キンタナ製 第2代・第7代・第10代王者グラン浜田が所有していた本物。
全長約1,050mm。
重量約0.8kg。
ストラップベルベット素材。
収納袋無。
刻印無。
UWA世界ミドル級王座は、UWAが管理していた王座である。
1975年、メキシコのLLIが創設。LLI解散後も王座のみ存続してWAR、格闘探偵団バトラーツ、新日本プロレスを渡り2002年、PABLOがKAIENTAI DOJOに持ち込んでからはK-DOJO管理下に置かれている。
グラン浜田(グランはまだ、1950年11月27日 - )は、日本の男性プロレスラー。本名は濱田 廣秋(はまだ ひろあき)。群馬県前橋市出身。身長167cm、体重90kg。その軽量な体を生かしてルチャリブレを活動の中心としている。また最も著名な日本人ルチャドールの1人とされ、日本およびメキシコにおいて顕著な活躍を残している。
娘のソチ浜田、浜田文子もプロレスラーである(正確には、ソチ浜田は夫人の連れ子であり、浜田文子とは異父姉妹となる)。
身長も小さく、ルチャでの活躍とスタイルからシュート系の強さと無縁と思われがちだが、浜田自身は柔道のミュンヘンオリンピック候補選手であり、その気の強さも相まって昭和新日本プロレスの中でも有数の猛者であった。治安の悪いメキシコで成功した理由に、プロレスセンスの良さとシュートの強さが比例していた背景がある。
1972年3月6日の大田区体育館での新日本プロレス団体旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登道春が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んで試合を行ったため、その煽りを受けて浜田が試合カードから外され、改めて3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行った。「リトル浜田」のリングネームで主に前座で試合を行っていたが、軽快な動きで大きな選手を手玉に取り、前座戦線の台風の目ともいわれた(190cm以上のキラー・カーンにも勝っている)。若手時代のちゃんこ番の際にカツ丼、ラーメンなど出前をとった。
1975年にメキシコへのプロレス修行に出る。メキシコではリングネームを現在の「グラン浜田」に変更した。メキシコでは、LLIを中心に活動し、1976年にはLLI参戦の最優秀外国人にも選ばれている。メキシコでのプロレス修行は1979年まで行い、同年2月に凱旋帰国を果たした。この時期既にメキシコに家族を持っていた浜田は、1995年まで日本とメキシコを往復する生活となる。メキシコに行った当時はスペイン語が喋れない、水質が悪い等、日常生活でも苦労したが、努力によりトップに立ち、4階級制覇という偉業を達成した。この浜田の活躍により日本とメキシコのルートができ、日本にルチャリブレが輸入され、現在に至る。
1980年代初頭、初代タイガーマスクの候補として名前が挙がりかけたが、新間寿によると「あいつはガニマタだからすぐにばれる」と実現には至らなかった。
1984年4月に第一次UWFに参加。同年8月には全日本プロレスに移籍。1986年にジャパン女子プロレスのコーチに就任とともに、一時現役を引退する。1988年に、同じく引退してコーチに就任していた大仁田厚との遺恨が発生。その際に、女子プロレスのリングながら試合を行い、現役に復帰する。
1990年3月にユニバーサル・プロレスリングの旗揚げに参加。1992年11月27日にザ・グレート・サスケがみちのくプロレスを旗揚げした際に、浜田のみがユニバーサル・プロレスリングに残った。所属選手の大半がいなくなったユニバーサル・プロレスリングはその後FULLと改名したが自然消滅。浜田自身も1994年8月から古巣の新日本プロレスに登場するようになる。ここまでの新日本→UWF→全日本→ジャパン女子→ユニバーサル、という団体移籍の動きは、柔道経験者として似た経歴を持っていることから若手時代に目をかけてくれて、メキシコへの道を開いてくれた新間寿に対する義理を優先したものとされ、浜田自身、プロレス雑誌等でそのことを公言していた。
1995年、みちのくプロレスに入団。みちのくプロレス所属中の1999年には、当時既にプロレスラーになっていた娘の浜田文子と親子タッグでの試合が実現している。また2000年11月25日には、娘の浜田文子と組んで、娘のソチ浜田&ソチの旦那のペンタゴン組とのタッグ戦も実現している。
2001年にフリーとなり、再度新日本プロレスに登場。また大阪プロレスなど多くの団体にも出場するようになり、全日本プロレスではラブマシンズの一員として「リトル・ラブ・マシン」のリングネームで活動した。
2006年娘の浜田文子が「ドクロンZ」として参戦しているハッスルに「ドクロンZパパ」というリングネームで登場した。入場曲とコスチュームは天才バカボン。
2007年には久々にメキシコマットに登場、ペンタゴンとの遺恨を復活させた。同時に文子とのタッグも結成。
日本では、藤波との交流から、無我〜ドラディションにほぼレギュラーメンバーとして参戦している(所属選手と共にチケットに並んで似顔絵が描かれているほど)他、2008年にはアイスリボンにも不定期参戦。
2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場した。鶴見五郎とタッグを組み、大仁田厚、栗栖正伸ペアに勝利した。
2009年4月15日、大阪でプロレス団体「MWF(メキシコ・レスリング・フェデレーション)」の旗揚げ戦を開催。
2011年11月27日、DDTプロレスリング後楽園大会「God Bless DDT 2011」に突然登場、大石真翔、男色ディーノらのユニット・ホモいろクローバーZへの加入(緑)が決定。
2013年8月9日、新宿FACEで開催された浜田文子15周年記念大会「〜Aventurera」に出場。セミファイナルで華名とシングルマッチを行い、勝利。
2017年、キラー・カーンとの対談で前立腺癌の手術をしたことを明かした。
メキシコ製メーカー不明 第11代・第15代・第23代王者ドスカラスが所有していた本物。
全長約1,210mm。
重量約2.8kg。
ストラップ本革。
収納袋無。
刻印無。
ユニバーサル・レスリング・アソシエーション(Universal Wrestling Association)は、メキシコのプロレス団体。略称はUWA。UWAはタイトル管理団体の総称であり本国メキシコではルチャ・リブレ・インターナショナル(Lucha Libre Internaciónal)で呼ばれることが多い。略称はLLI。
1975年1月、EMLLを退団したレイ・メンドーサ、フランシスコ・フローレス、ベンジャミン・モーラらによって設立されて1月29日、パラシオ・デ・ロス・デポルテスで旗揚げしたナウカルパンのエル・トレオを拠点にしていた。
日本では新日本プロレス、ユニバーサル・プロレスリング、全日本女子プロレス、ジャパン女子プロレス、アメリカではWWFと業務提携を結んで多くの選手を送り込んだり日本とアメリカの選手が参戦。
旗揚げ当初はEMLL(現:CMLL)から人気選手のアニバル、ドクトル・ワグナーらを大量に引き抜いて一時はメキシコマット界で大人気を誇ったが、その引き抜いた人気選手達がトップに君臨し続けたことにより世代交代が充分に行えず、その後メキシコ国内で禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁された際に、その流れに乗ることが出来ずEMLLに大きく遅れをとることになってしまう。
1992年、エンターテイメント中心のAAAが旗揚げされると、さらに人気が低迷して1994年、社運をかけてAAAと対抗戦を企画するも常設会場のエル・トレオのオーナーの急逝後に常設会場の賃貸問題で面倒なことが起こるようになり1995年、ほぼすべての選手がAAAに移籍する大事件が起こり一気に弱小プロモーション団体になってしまう。トレオを撤退して規模の小さいアレナ・ネッサワルコヨを新たに常設会場を置いて活動を続けたが1997年、代表のカルロス・マイネスの誘拐事件が起こり身の代金を工面するためアレナ・メッサを売却することとなり常設会場を失い約22年の歴史に幕を下ろした。現在、UWA王座は日本とメキシコで定着しておりUWAの名前はタイトル管理組織として形式的に存在している。
2015年、復活へ向け検討に入っていることが明らかにされた。
UWA世界ヘビー級王座は、UWAが管理していた王座である。
1977年、メキシコのLLIが創設。1975年、LLI旗揚げ戦でミル・マスカラスと引き分け試合を演じたルー・テーズを初代王座に認定。
LLIが新日本プロレスと友好関係にあった時代にはアントニオ猪木らも王座を奪取しており新日本の興行でも選手権試合が行われていた。
1995年、LLI解散後は王座のみ存続がしてCMLL管理下で選手権試合が行われていたがドクトル・ワグナー・ジュニアが王座を保持したままCMLLからAAAに移籍して長きに渡り防衛戦を行っている。
Wikipediaより
以下参考画像
闘魂タオル 本人使用済み。
昭和62年(1987年)8月19日 新日プロ「サマー・ナイト・フィーバー・イン国技館」両国国技館 アントニオ猪木、坂口征二、藤原喜明、星野勘太郎、武藤敬司対藤波辰巳、長州力、前田日明、木村健吾、スーパーストロング・マシンで使用され、リングから観客席に投げたもの。
アントニオ 猪木(アントニオ いのき、英: Antonio Inoki, 1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー、実業家、政治家。日本を元気にする会所属の参議院議員(2期)、日本を元気にする会代表。本名:旧リングネーム:猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」(当初は「燃ゆる闘魂」)。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。元妻は、女優の倍賞美津子。倍賞との間に娘が一人いる。1991年にイラクのシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン」。
プロレスラー現役時代は新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。
日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。
新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。
中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはアントニオ猪木対モハメド・アリを参照)。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したが、その後クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。
Wikipediaより
ザ・デストロイヤー 本人使用済みです。
デサント製、現役時代、本人が試合で使用したマスクです。
明確な使用日時場所等は不明です。
証明書、直筆サイン入り。
ザ・デストロイヤー(The Destroyer、1930年7月11日 -)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。本名はリチャード・ベイヤー(Richard Beyer)、通称ディック・ベイヤー(Dick Beyer)。
アメリカでは、ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤー(Dick "The Destroyer" Beyer)などのリングネームで知られる。
日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして、足4の字固めを武器に力道山やジャイアント馬場と戦った他、テレビタレントとしても活躍した。
息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。
シラキュース大学教育学部卒業、シラキュース大学大学院修士課程修了。在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーとしての活動も並行して始める。
当初は本名・素顔で試合を重ねてきたが、1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒールの覆面レスラー「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)」に変身。ロサンゼルスのWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。その後、1964年にも7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、世界タッグ王座にも2回戴冠した。
NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションやニック・ボックウィンクルと抗争。サンフランシスコのアメリカン・レスリング・アライアンスでは義兄弟ビリー・レッド・ライオンとのコンビで活動し、1965年にレイ・スティーブンス&パット・パターソンと世界タッグ王座を争った。テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラー(ミスター・アトミック)と組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している。
1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX(Dr. X)」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。8月31日にガニアにタイトルを奪還され短命王者となるも、戴冠中はクラッシャー・リソワスキー、マイティ・イゴール・ボディック、ビル・ワットらの挑戦を退けている。
NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座(かつて自身が戴冠していたWWA世界ヘビー級王座の後継タイトル)に挑戦。1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた。
以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、ラリー・ヘニング、ラーズ・アンダーソン、バロン・フォン・ラシク、イワン・コロフ、ダスティ・ローデスなどのヒール勢と対戦。クラッシャー・リソワスキー、ビル・ロビンソン、レッド・バスチェン、ワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した。
その後、1973年より全日本プロレスの所属選手となってからも、ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸を中心に、アメリカのリングに時折出場した。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダのトロントやモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ビル・ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFのハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している。
1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界ヘビー級王座を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。
初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした(このような公式記録はない)」と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言(日本陣営が手薄だったことから馬場が引っ張り込んだという説が今では支配的)、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどと名勝負を残した。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田や大仁田厚、渕正信らが教えを受けている。
「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974年7月25日のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976年8月28日のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリング、ジ・アベンジャー、ザ・バラクーダ、カリプス・ハリケーン、ブルー・シャーク、スーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で『タイガーマスク』のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模したオリジナルチャンピオンベルトも存在する。
Wikipediaより
参考画像
ドクターX 本人使用済みです。
メーカー不明。
現存する5枚のうちの1枚。
平成17年(2005年)1月、水道橋のプロレスショップバトルロイヤルサイン会にて使用されバトルロイヤルオークションに出品されたドクターXの試合用マスクです。
証明書付き。
ザ・デストロイヤー(The Destroyer、1930年7月11日 - 2019年3月7日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。本名はリチャード・ジョン・ベイヤー(Richard John Beyer)、通称ディック・ベイヤー(Dick Beyer)。
アメリカでは、ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤー(Dick "The Destroyer" Beyer)などのリングネームで知られる。日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして、足4の字固めを武器に力道山やジャイアント馬場と戦ったほか、テレビタレントとしても活躍した。息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。
シラキュース大学教育学部卒業、シラキュース大学大学院修士課程修了。在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーとしての活動も並行して始める。
デビュー後から1960年代初頭にかけては素顔の「ディック・ベイヤー(Dick Beyer)」として、地元のバッファローやクリーブランドなど、後にNWFの拠点となる五大湖エリアを主戦場にベビーフェイスのポジションで活動。ダン・ミラー、フレッド・アトキンス、ジョン・トロス、アンジェロ・ポッフォ、ワルドー・フォン・エリックらと対戦し、ボボ・ブラジルのパートナーにも起用された。
1962年、白地に赤や青の縁取りを付けたマスクを被り、ヒールの覆面レスラー「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)」に変身。ロサンゼルスのWWAにて、同年7月27日にフレッド・ブラッシーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得、覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。その後、1964年にも7月22日にディック・ザ・ブルーザー、11月13日にカウボーイ・ボブ・エリスから同王座を奪取し、通算3回にわたってWWA世界ヘビー級王者となっている。WWAではハードボイルド・ハガティをパートナーに、世界タッグ王座にも2回戴冠した。
NWA圏では1964年上期、オレゴンおよびワシントン州のパシフィック・ノースウエスト地区にてマッドドッグ・バションやニック・ボックウィンクルと抗争。サンフランシスコのアメリカン・レスリング・アライアンスでは義兄弟ビリー・レッド・ライオンとのコンビで活動し、1965年にレイ・スティーブンス&パット・パターソンと世界タッグ王座を争った[8]。テキサスでは1966年2月8日、ダラスにてゴールデン・テラー(ミスター・アトミック)と組み、当時アメリカ修行中だったカンジ・イノキ&デューク・ケオムカから東テキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取している。
1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX(Dr. X)」を名乗り、8月17日にバーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。8月31日にガニアにタイトルを奪還され短命王者となるも、戴冠中はザ・クラッシャー、マイティ・イゴール・ボディック、ビル・ワットらの挑戦を退けている。
NWA圏ではザ・デストロイヤーに戻り、ロサンゼルスでは1969年8月15日、後に日本でも幾多の好勝負を残すこととなるミル・マスカラスのNWAアメリカス・ヘビー級王座(かつて自身が戴冠していたWWA世界ヘビー級王座の後継タイトル)に挑戦。1970年9月30日にはハワイにてペドロ・モラレスからNWA北米ヘビー級王座を奪取、12月16日にビル・ロビンソンに敗れるまで、ザ・シークらを相手に防衛を続けた。
以後、1970年代前半もロサンゼルスやハワイ、ドクターXの名義でAWAなどで活動。AWAでは1971年よりベビーフェイスに転向しており、ボックウィンクル、スティーブンス、ラリー・ヘニング、ラーズ・アンダーソン、バロン・フォン・ラシク、イワン・コロフ、ダスティ・ローデスなどのヒール勢と対戦。クラッシャー、ロビンソン、レッド・バスチェン、ワフー・マクダニエルらと組んでボックウィンクル&スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦した。
その後、1973年より全日本プロレスの所属選手となってからも、ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸を中心に、アメリカのリングに時折出場した。日本へのレギュラー出場を終えた1979年以降は、カナダのトロントやモントリオール地区などで活動。トロントでは1980年1月13日、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。モントリオールでは1983年1月10日、ロビンソンを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、自身のキャリアにおける最後のタイトル戴冠を果たした。同年5月17日にはニューヨーク州シラキュースでのWWFのハウス・ショーにおいて、当時アメリカ遠征中だった藤波辰巳と対戦している。
1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界ヘビー級王座を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。
初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした」(このような公式記録はない)と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動。PWF認定USヘビー級王者として、アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスらと王座を賭けた名勝負を残した。1975年3月12日には富士宮において、ジャック・ブリスコが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田をはじめ大仁田厚や渕正信などが教えを受けた。
「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974年7月25日のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976年8月28日のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリング、ジ・アベンジャー、ザ・バラクーダ、カリプス・ハリケーン、ブルー・シャーク、スーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で『タイガーマスク』のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模したオリジナルチャンピオンベルトも存在する。
Wikipediaより
参考画像
レプリカ
海外製。
全長約1,270mm。
重量約2.0kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
NWA世界ジュニアヘビー級王座
NWA世界ジュニアヘビー級王座(NWA Junior Heavyweight Championship)は、NWA(National Wrestling Alliance)本部直轄のプロレスのタイトルである。
王座創設は新NWA(アライアンス)が発足される前の第二次世界大戦中の1943年で、後にアライアンスの初代会長に就任するピンキー・ジョージ(英語版)によりケン・フェネロン(英語版)が初代王座に認定されている。1944年にはMWA王者エディ・キャンベルを下し王座統一。
1949年、新NWA王者ビリー・ゲルツ(英語版)と旧NWA(アソシエーション)王者レロイ・マクガーク(英語版)の間で王座統一戦が行われ、勝利したマクガークにより新旧王座が統一された。1950年2月、マクガークが交通事故による失明のため返上。1950年11月13日王座決定戦でバーン・ガニアがベルト獲得。1951年に王座を獲得したダニー・マクシェイン(英語版)は3州の王座を吸収する。
その後、元王者でオクラホマ地区のプロモーターであったマクガークによって同王座の管理・運営をNWAから任されることになり、主にマクガークのプロモートするNWAトライステート地区(オクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソー)で選手権試合が行われるようになった。だが、このことが王座の占有を招く結果となり、NWAの反主流派と呼ばれていたプロモーター達(WWFのビンス・マクマホン、CWFのエディ・グラハム、ハリウッド・レスリングのマイク・ラベール、新日本プロレスの新間寿ら)と反目する原因となった。
1979年に当時の王者であったネルソン・ロイヤルの引退に伴い、反主流派はロサンゼルスにて同年12月10日に王座決定戦を行い、スティーブ・カーンを新王者に認定するも、これに異を唱えたマクガークも1980年2月11日にオクラホマで王座決定トーナメントを決行し、ロン・スターを新王者に認定したため、一時期、2つの『NWA世界ジュニアヘビー級王座』が混在するなどの事態を招いたが、最終的にはマクガーク版のタイトルの正当性が認められた。なお、反主流派が新設したタイトルは「NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座」として日本に定着している。
ケン・マンテルが王者時代、フリッツ・フォン・エリックが1万ドルで製作したレジー・パークス製作のベルトが贈られる。1974年12月5日には、日本大学講堂においてマンテルにジャンボ鶴田が挑戦。1982年5月25日レス・ソントンからタイガーマスク(初代)が奪取するが、NWA本部では王座獲得のみを記録し、アメリカではソントンが継続して王者として活動する。タイガーマスクは新日本プロレス認定の王座として防衛戦を続ける。ソントンがWWFに移籍すると、その後はジム・クロケット・ジュニアが管理、最終的に、ロイヤルが過去の実績が認められ認定されるが1988年に王座は封印。新日版王座は、タイガーマスク引退後に1983年11月3日にザ・コブラが獲得。WWFの同級王座と共に新日本プロレスにて管理されていたが[2]、WWFと新日の業務提携終了に伴い、1985年10月31日をもってWWFジュニアヘビー級王座を返上。この機会に、1985年8月に王者であったコブラがNWA王座も返上することとなった。
wikipediaより
以下参考画像
プロレスの異種格闘技戦、K-1、PRIDE等の選手の直筆サイン。
(画像1枚目)ボクシング世界王者 モハメッド・アリ 直筆サイン色紙1枚(猪木戦で来日時)
(画像2枚目)レオン・スピンクス 直筆サイン色紙1枚、マーシャルアーツ世界王者 ザ・モンスターマン(ランバジャック・ジョニー・リーとの寄せ書き、為書き有)、極真空手 ウイリー・ウイリアムス 直筆サイン色紙1枚、柔道金メダリスト ウイリアム・ルスカ 直筆サイン色紙1枚
(画像3枚目)K-1歴代王者 93年度王者 ブランコ・シカティック、94・95・98年度王者 ピーター・アーツ、96年度王者 アンディ・フグ、97・99・00・02年度王者アーネスト・ホースト、01年度王者 マーク・ハント、03・04年度王者 レミー・ボンヤスキー、05年度王者 セーム・シュルト 各直筆サイン色紙1枚、ブランコ・シカティック、アンディ・フグ以外は各直筆サインカード1枚、
モハメッド・アリ、マイク・タイソン、フロイド・メイウェザー・ジュニア、ジョージ・フォアマン、マニー・パッキャオ、レオン・スピンクス 、ロベルト・デュラン、チャック・ウェプナー、大場政夫、ファイティング原田、輪島功一、西城正三、ガッツ石松、具志堅用高、藤猛、渡辺二郎、井岡弘樹、辰吉丈一郎、鬼塚勝也、薬師寺保栄、葛西裕一、川島郭志、坂本博之、竹原慎二、畑山隆則、亀田興毅、内山高志、井岡一翔、井上尚弥、村田諒太、入江聖奈、ザ・モンスターマン、ランバジャック・ジョニー・リー、ミスターX、 ウイリー・ウイリアムス、ベニー・ユキーデ、ドン・ナカヤ・ニールセン、レフトフック・デイトン、トム・マギー、ラジャ・ライオン、エメリヤエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ヴァンダレイ・シウバ、ミルコ・クロコップ、マーク・ケアー、マーク・コールマン、ブランコ・シカティック、 ピーター・アーツ、アンディ・フグ、アーネスト・ホースト、マーク・ハント、 レミー・ボンヤスキー、 セーム・シュルト、チェ・ホンマン、ボブ・サップ、石井和義、佐竹雅昭、角田信朗、シーザー武志、三船久蔵、猪熊功、アントン・ヘーシンク、ウイリアム・ルスカ、山下泰裕、斉藤仁、古賀稔彦、小川直也、グレゴリー・ベリチェフ、吉田秀彦、野村忠宏、井上康生、鈴木桂治、石井慧、テディ・リネール、ウルフ・アロン、阿部一二三、阿部詩、佐藤ルミナ、桜井"マッハ"速人、宇野薫、高田延彦、桜庭和志、藤田和之、魔裟斗、山本郁榮、山本“KID”徳郁、秋山成勲、五味隆典、須藤元気、所英男、朝倉未来、朝倉海、クレベル・コイケ、大山倍達、ジャック・サンダレスク、中村忠、芦原英幸、山崎照朝、添野義三(添野義二)、盧山初雄、長谷川一幸、東孝、佐藤勝昭、二宮城光、中村誠、松井章圭、黒澤浩樹、緑健児、八巻建志、塚本徳臣、成嶋竜、木山仁、フランシスコ・フィリオ、エヴェルトン・テイシェイラ、エリオン・グレーシー、ヒクソン・グレーシー、ホイス・グレーシ、アリスター・オーフレイム、アレクサンダー・カレリン、谷亮子、岡本依子、山本美憂、浜口京子、吉田沙保里、伊調馨、登坂絵莉、ギャビ・ガルシア、高野人母美、RENA、浅倉カンナ、沢村忠、島三雄、富山勝治、藤原敏男、猪狩元秀、立嶋篤史、武田幸三、那須川天心、武尊、堀口恭司、大鵬、栃錦、北の湖、輪島、貴ノ花、千代の富士、小錦、若乃花、貴乃花、曙、朝青龍、白鵬、日馬富士、稀勢の里、等多数。
大山倍達
松井章圭
碧健児