『大激闘マッドポリス/特命受験生』 -17ページ目

『大激闘マッドポリス/特命受験生』

2025年、毎日ブラブラして人一倍やる気のない、まっちゃんは突然、猛省。今の目標は法律系の資格では一番に難しい司法試験の一発合格である。試験委員は勉強をなめている、まっちゃんを「命知らずの受験生」と呼び恐れおののいていた。

海外製

全長約1,320mm。

重量約3.5kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

インターナショナル・タッグ王座

インターナショナル・タッグ王座(エヌダブリューエーインターナショナル・タッグおうざ)は、かつて日本プロレスWWAに働きかけてアメリカで設立。後に全日本プロレスに管理権が移りPWF認定のタイトルとなった。現在は世界タッグ王座を構成する2本のベルトのうちの一つである。長期間NWAの認可だった事もあり、日本以外ではNWAインターナショナル・タッグ王座と呼称される。

概要

フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシスが、1966年9月の日本プロレス参戦前に王者チームとして認定された。初代王者チームはアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンファビュラス・カンガルーズで、ゲーリング&パドーシスは第6代王者とされるが、ゲーリング組が来日するまでの変遷はフィクションと見られている

G SPIRITS vol59によると、インタータッグのベルトは鷲の大きさや鷲の羽根の開き方など多少の違いはあるものの、基本デザインとベースはインターシングルやアメリカスヘビー級王座ベルトとほとんど一緒となっており、これはカップやトロフィー、メダルなどを製造する元浅草の老舗松本微章工業株式会社の作品として知られる。日本プロレスはインタータッグ王者を新設するにあたって、同社製造のシングルの黒革に青字を張ったベルトに少し似せた雰囲気の黒革のみのベルトを日本で作らせ、それをケースに入れて梱包し羽田からロスへ空輸する手続きをしたと日本プロレスで担当した三沢正和が答えている。

そのベルトをロサンゼルスで最初に巻いたのはビジランテスというタッグチーム、ジェリー&ボビーのクリスティ兄弟としており、つぎにゲーリング&パドーシス組に移動させ、こうしてしばらく泳がせてアメリカでの既製ベルトのように見せかけ箔をつけさせた。選手権の様子はロスの特派員である吉本栄が随時写真を日本に送って東京スポーツの一面を飾っていく。

南カリフォルニアを地盤とする往時のWWAは提携する日本プロレスのために、自分たちとほとんど無関係なよそ者レスラーを使って、ストーリー作りに協力していたようである。

同年11月5日にジャイアント馬場&吉村道明がゲーリング&パドーシスを破って王座について以来、日本を代表するタッグベルトとして幾多の名勝負を生んだ。

歴代王者には馬場&アントニオ猪木BI砲)、坂口征二(東京タワーズ)、ジャンボ鶴田(BJ砲)のコンビや、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーザ・ファンクス大木金太郎&キム・ドクタイガー・ジェット・シン&上田馬之助ロード・ウォリアーズ、鶴田&天龍源一郎鶴龍コンビ)、長州力&谷津嘉章などの名コンビが名を連ね、挑戦者チームも、フリッツ・フォン・エリック&ワルドー・フォン・エリック(フォン・エリック・ブラザーズ)、スカル・マーフィー&ブルート・バーナードダスティ・ローデス&ディック・マードックテキサス・アウトローズ)、キング・イヤウケア&ブル・ラモス(ザ・タイクーンズ)、アブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディミラクルパワーコンビ)、ミル・マスカラス&ドス・カラス(マスカラス・ブラザーズ)、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディファビュラス・フリーバーズ)などプロレス史上に残るタッグチームや、ハンス・シュミット&バディ・オースチンマッドドッグ・バション&キラー・カール・コックスジン・キニスキー&ジョニー・バレンタインブルーノ・サンマルチノ&キラー・コワルスキービル・ロビンソン&ワフー・マクダニエルといった即席ながら強豪外国人同士のドリーム・チームまで、幾多の名レスラー・名コンビの名前が並んでいる。大木&ドクの戴冠時には、当時の国際プロレスの最強コンビだったラッシャー木村&グレート草津も挑戦した

馬場&吉村の王座獲得から1973年4月までは日本プロレスの管理下にあったが、日本プロレス崩壊後の1973年5月から1975年2月まではファンクスがタイトルを保持し、本拠地のテキサス州アマリロや全日本プロレスにおいて防衛戦を行っていた(アマリロでは、1974年に馬場&パク・ソンザ・ブラックジャックスの挑戦を受けている)。1975年2月5日、テキサス州サンアントニオで馬場&鶴田がファンクスを破って王座を奪取、以降は全日本プロレスのフラッグシップ・タッグタイトルとなった。1982年8月30・31日にプエルトリコサンフアンで行われたNWA総会では「NWAは東洋シェアでの実績と信用を評価し、インターナショナル・ヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座、インターナショナル・ジュニアヘビー級王座の3つの王座は、今後はPWFと全日本プロレスに半永久的に管理および運営を一任する」(総会に出席した馬場・談)という決定がなされ、NWAから全日本プロレスに管理権を委託したことが正式に発表された。

1988年、インターナショナル・タッグ王者のウォリアーズとPWF世界タッグ王者の鶴田&谷津の間で統一戦が行われ、鶴田組が勝ったことにより両王座は世界タッグ王座として統一された。

 

Wikipediaより

 

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全長約1,260mm。

重量約5.5kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座

ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座(ユナイテッド・ナショナル・ヘビーきゅうおうざ)は、かつて 日本プロレスが管理し、後に全日本プロレスに管理権が移ったプロレスの王座である。UNヘビー級王座の略称で表記・呼称される。

現在は三冠ヘビー級王座を構成するチャンピオンシップの一つである。

この王座は1970年8月にNWA本部がメキシコカナダアメリカの3国で通用する国際タイトルとして新設した。新設時からアントニオ猪木に奪取されたジョン・トロスまでの変遷については、プロレス雑誌でも諸説がある。

1971年3月26日にアメリカ・ロサンゼルスオリンピック・オーディトリアムでアントニオ猪木がジョン・トロスを破って王座を獲得して日本に持ち込みほぼ定着する。猪木はUNヘビーを獲得したことで、当時インターナショナル・ヘビー級王者であったジャイアント馬場に対抗するはずであったが、猪木が日本プロレス除名されるとともにベルトはNWA本部へ返還された。その後坂口征二が王者となり延べ1年にわたり保持、その坂口が日本プロレス離脱後には高千穂明久が王者となったが、間もなく日本プロレスが崩壊、王座は休眠状態になった。

1976年全日本プロレスの要請で王座が復活し、以降同団体に定着する。ジャンボ鶴田が王者になったが、タイトルの格はPWFヘビー級王座より下とされていた。その鶴田も5度目の王獲得後、インター王座獲得に専念する為に王座を返上してしまい、全日本におけるタイトルの格は3番目ということになってしまった。その後、天龍源一郎が長きにわたってベルトを保持し、天龍の代名詞といわれるまでになった。

1989年4月18日にジャンボ鶴田が本王座・PWF王座・インター王座の三冠を統一してからは、三冠ヘビー級王座のベルトの一本として定着する。

ZERO1にて現在のNWAが認定するNWAユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座というタイトルが存在しているが、上記の王座とは無関係である。

Wikipediaより

 

 

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全長約1,290mm。

重量約5.0kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

NWFNational Wrestling Federation、全米レスリング連盟)は、1970年代前半にアメリカ合衆国に存在したプロレス団体

 

プロモーターのペドロ・マルティネスと、選手兼プロモーターのジョニー・パワーズを中心に設立、運営され、ニューヨーク州バッファローオハイオ州クリーブランドを拠点に、アメリカ北東部五大湖地区およびカナダを主要エリアとして活動した。「North American Wrestling Federation」を正式名称とする説もある。

概要

1970年ニューヨーク州バッファローを中心とするアメリカ北東部の大物プロモーター、ペドロ・マルティネスと、同地のトップスターであり、オハイオ州クリーブランドのプロモート権を得ていたジョニー・パワーズを中心に、メジャー団体のNWAAWAWWWF(現:WWE)と一線を画す独立団体として設立された。パワーズは同年ロサンゼルスにおいてフレッド・ブラッシーに勝利したとして初代世界王者に認定され[1] 、その後、王者は目まぐるしく交代する。

最盛期にはミシガン州メリーランド州、カナダのトロントモントリオールへとテリトリーを拡大、弱小団体とは呼び難い勢力を持つに至った。ボボ・ブラジルジョニー・バレンタインアブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シークアーニー・ラッドら一流選手が多数集結、パワーズとバレンタイン、ラッドとブッチャーとの抗争などの名物カードも生み、アメリカのプロレス誌上では、NWA、AWA、WWWFに次ぐ第4の団体と認知されていた時期もあった。

しかし1973年に入ると勢力は衰退、縮小していく。同年12月10日に新日本プロレスで行われた世界戦において、第14代王者となっていたパワーズがアントニオ猪木に敗れ王座が日本に渡る。その後もパワーズは1974年3月には猪木を招聘してクリーブランドで世界戦を行うなど、1975年初めまでは同地で興行を行っていた。しかし前年に一時プロレス界から離れていたマルティネスが関わった新団体IWAに吸収されるかたちで、同年半ばまでには事実上活動を停止し消滅状態となった。このIWAも同年中にはスポンサーが離れたこともあり規模を縮小、パワーズが引き継ぎノースカロライナ州でインディー団体として活動を続けた。

以上のように米国プロレス史全般からみれば短命のローカル団体にすぎず、設立経緯や活動内容、歴代王者等に不明な点も多々ある。しかし、アントニオ猪木が世界ヘビー級王座を1973年の獲得から新日本プロレスの看板タイトルとして1981年まで長く保持したこと、また日本でも高名な大物選手が多く参加していたこと等により、日本には愛着や関心を持つプロレスファンが多い

 

新日本プロレスとの関係

 

一般にNWFと新日本プロレスとの結びつきは、1966年東京プロレスに初来日して以来の、ジョニー・パワーズアントニオ猪木の関係によるものとされている。しかし実際には、NWF設立以前の1969年に当地をサーキットし、パワーズとも旧知の坂口征二によるブッキングと考えるのが妥当である。

 

日本では「パワーズが図らずも猪木に王座を奪われたため、隆盛を誇っていたNWFが一転凋落に向かった」という伝説が、長年史実として語られてきた。現在はパワーズが新日本プロレスに王座を、興行権として売却したとの見方が通説になっている。この王座売却の時点で既にパワーズは団体自体を店じまいするつもりだったとの極端な見方もされるが、その後も1975年初めまではクリーブランド等で「パワーズの保持するNWF北米ヘビー級ベルト」を看板に興行を行っており、これも断じ難い。

 

1975年初めで事実上NWFが消滅した後も、新日本プロレスは1977年前半頃まはNWFが存続しているようなアングルを組んでおり、パワーズによるクーデターが伝えられたこともあった。上述のように、パワーズはIWAの名で1977年半ば頃まではノースカロライナ州で興行をしており、パワーズ一派という意味ではNWFの存続もまったくの絵空事ではなかった。しかし、それ以降はNWFの消滅は日本でも周知の事実となり、同王座は事実上、新日本プロレスが管理・運営する王座となった。

 

1975年2月12日、NWFはNWAと業務提携を結んだ。1976年8月7日 NWA年次総会で新日本プロレス(名義人は坂口と新間寿)のNWA加盟が認められるとタイトル名から「世界」が外され、NWF世界ヘビー級王座から NWFヘビー級王座 と改称された[2]

 

1981年4月、IWGP構想に伴い、スタン・ハンセンとの王座決定戦に勝った猪木により、同王座は封印された。

Wikipediaより

 

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全長約1,300mm。

重量約5.1kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

グレーテスト18クラブ王座

グレーテスト18クラブ王座(グレーテストエイティーンクラブおうざ)は、かつて新日本プロレスが管理していた王座。

歴史

1990年9月29日に行われたアントニオ猪木のレスラー生活30周年記念パーティーの席上で、ルー・テーズを発起人とした「過去に猪木と闘った」、プロレスラー及び格闘家によって構成された「グレーテスト18クラブ」が認定するタイトルの制定が発表された。

プロレス、格闘技を問わず優れた選手に贈るという触れ込みで設定された王座だが、選手たちはもとより、殆どのスタッフも事前にそのような王座を作るという話は聞いていなかったとも言われている(一部のフロントの独断でテーズを説得して作ったとも言われている)。

チャンピオンベルトについては、1989年に猪木が封印したWWF世界マーシャルアーツ・ヘビー級王座のベルトが再利用された。このタイトルも僅か3代(2名)の戴冠で終わったものであった。

形式上はグレーテスト18クラブが対戦相手を指定し、防衛戦を行う形で運営され、その初の「指定試合」は1991年3月21日東京ドームにて行われ、初代王者として認定された長州力タイガー・ジェット・シンとの間で防衛戦が行われ、長州が防衛する。

その後、中心人物であったはずのテーズはUWFインターナショナルとの関係が強くなり、プロレスリング世界ヘビー級王座の制定に関わるなどしたため、新日本プロレスとの関係が疎遠となり、グレーテスト18クラブ王座の存在理由が微妙になってしまう。

この様な背景のなか行われた1992年8月16日福岡国際センターにおけるIWGPヘビー級王座とグレーテスト18クラブ王座のダブルタイトルマッチで、二冠王者だった長州をグレート・ムタが破って第2代王者となるも、「グレーテスト18クラブは価値なし」として返上。その後グレーテスト18クラブが次の王者を指名する事もなく、王座決定戦も行うこともなく、そのままグレーテスト18クラブそのものも含め消滅する。

グレーテスト18クラブのメンバーとされたレスラーの中には、猪木の30周年記念パーティーには出席していないカール・ゴッチボブ・バックランドバーン・ガニアストロング小林ハルク・ホーガンモハメド・アリや、パーティー開催当時は全日本プロレスに参戦して新日本と関わっていないスタン・ハンセンアンドレ・ザ・ジャイアントもいた。

これら18人のメンバーの意見をそろえて対戦相手の選出を行っていたとは考えられず、そもそもグレーテスト18クラブ王座の存在を知っていたかすら疑問だった。その場の勢いで作ってしまった王座という印象が否めず、消えるべくして消えた王座だとも言える。

グレーテスト18クラブのメンバー

歴代王者

歴代選手戴冠回数防衛回数獲得日付獲得場所(対戦相手・その他)
初代長州力131991年2月25日グレーテスト18クラブが初代王者に認定
第2代グレート・ムタ101992年8月16日福岡国際センター、返上と同時に消滅

 

Wikipediaより

 

 

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全長約1,210mm。

重量約2.1kg。

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収納ケース無。

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真の世界ヘビー級王座

真の世界ヘビー級王座しんのせかいへびーきゅうおうざ、sekai hebī-kyū ōza World Heavyweight Championship)または真の世界選手権(しんのせかいせんしゅけん、Real World Championship)は、かつて新日本プロレスで設立されたタイトルカール・ゴッチが勝利し新日本プロレスから初代チャンピオンに選ばれた。ベルトは1962年9月11日から1964年9月7日までカール・ゴッチによって保持されたアメリカン・レスリング・アライアンス(オハイオ)認定のAWA世界ヘビー級王座のベルト(ベルトはレプリカ)を利用。その後アントニオ猪木が奪取するが、防衛戦を成功したのは1972年10月9日、新黄金シリーズの12日目、レッド・ピンパーネルに対して一度だけである。ゴッチは1972年10月10日猪木からタイトルを奪還 、2度目の載冠および最後の王者となる。

アメリカン・レスリング・アライアンス

Wikipediaより

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全長約1,320mm。
重量約4.0kg。
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WWFインターナショナル・ヘビー級王座

WWFインターナショナル・ヘビー級王座WWF International Heavyweight Championship)は、現在のWWEがかつてWWFだった時代に認定した王座である。1982年に新王者となった藤波辰巳によって、新日本プロレスに定着した。

概要

もともとはWWWFインターナショナル・ヘビー級王座として、アントニオ・ロッカが保持していた王座とされるが、防衛記録などの詳細は不明である[1]1982年にWWFインターナショナル・ヘビー級王座としての復活後、同年8月30日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにて、当時の王者ジノ・ブリット藤波辰巳が挑戦して奪取。当時の実況担当だった古舘伊知郎は、かつて藤波が長年保持したWWFジュニアヘビー級王座が、初代王者のジョニー・デ・ファジオに因み「デ・ファジオ・メモリアル」と呼ばれたのに倣い、この王座を「藤波が掘り当てた『ロッカ・メモリアル』」と称していた。

同年9月21日、大阪府立体育会館にてマスクド・スーパースターを下して初防衛を飾った王者藤波に、長年地味な存在に甘んじていた長州力が、メキシコ遠征でUWA世界ヘビー級王座を奪取したのをきっかけに「俺もヘビー級の王者だ」と主張、藤波と袂を分かつことを宣言する。翌1983年4月3日、蔵前国技館において長州は2度目の藤波への挑戦で王座を奪取。この試合は プロレス大賞 のベストバウト(年間最高試合賞)に選ばれ、以降両者の抗争は同王座を中心に巡る「名勝負数え歌」と呼ばれる戦いとなり、長州戴冠後の両者のシングルマッチにおいては実に計6度のタイトルマッチが行われた。

当時、歴史的背景の薄いタイトルともされていたが、WWFNWAAWAと並ぶ世界三大プロレス団体という位置付けであったことから、アメリカのメジャー団体の認定するヘビー級タイトルとして認知度も次第に高まっていた。王者として知名度をあげた藤波に、挑戦者のボブ・オートン・ジュニアはタイトルマッチ前のインタビューで「このベルトをアメリカに持って帰れば即、通用するタイトルだ」と語っていた。藤波は第6代王者として長州やオートン・ジュニアの他に、キラー・カーンエル・カネックアドリアン・アドニスジミー・スヌーカなどを相手に8回連続防衛を成功させた。

1985年7月19日、藤波がスーパー・ストロング・マシンとの防衛戦の内容に不満を漏らして返上。新日本プロレスとWWFの業務提携が終了した同年10月31日をもって、この王座は空位のまま封印される。同じく藤波の保持していたWWFインターナショナル・タッグ王座(パートナーは木村健吾)と、ザ・コブラが保持していたWWFジュニアヘビー級王座も併せて返上後に封印された

タイトルマッチルールとして、フォール、ギブアップ、KO勝ちの他に リングアウト・フェンスアウト反則勝ちなどあらゆる勝ちに対して王座が移動するルールが採用されていた。

 

歴代王者

歴代数レスラー防衛回獲得日付獲得した場所(対戦相手・その他)
初代アントニオ・ロッカ 1948年アルゼンチンブエノスアイレス
第2代トニー・パリシ 1982年アメリカニューヨーク州バッファロー
第3代ジノ・ブリット 1982年8月アメリカ:ニューヨーク州バッファロー
第4代藤波辰巳31982年8月30日アメリカ:ニューヨーク州ニューヨーク
マディソン・スクエア・ガーデン
第5代長州力21983年4月3日東京都蔵前国技館
第6代藤波辰巳81983年8月4日東京都:蔵前国技館
第7代前田明 (前田日明)11984年3月25日アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデン
第8代藤波辰巳31984年7月5日不明
1985年7月19日に札幌中島体育センターの防衛戦後に王座返上

Wikipediaより

 

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全長約1,290mm。
重量約4.0kg。
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WWFジュニアヘビー級王座(WWF Junior Heavyweight Championship)は、かつてWWFが認定した王座である。

概要

1965年ジョニー・デ・ファジオが初代WWWF世界ジュニアヘビー級王者に認定される[1]1978年WWWFジュニアヘビー級王座として復活するまでの王座の変遷、防衛戦など詳細は不明である。
1978年1月23日に新日本プロレス藤波辰巳が、ニューヨーク州ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンカルロス・ホセ・エストラーダを破り第3代王者となり、日本へ凱旋帰国してからは新日本プロレスに王座が定着する。藤波は途中剛竜馬に王座奪取を許すも、4年近くにわたり王座を保持した。藤波がヘビー級転向に伴い王座を返上してからはタイガーマスクが長く保持し、彼が中心となってダイナマイト・キッドブラック・タイガーグラン浜田小林邦昭らが王座を争い、新日本プロレスの全盛期を彩った。
その後はザ・コブラが王座の中心となるも、1985年10月31日にWWFと新日本プロレスの業務提携が終了に伴い王座返上、そのまま封印された王座として取り扱われている。その後、IWGPジュニアヘビー級王座が創設されることとなる。
なお、SWSがWWFとの提携を行ったさい、新日本プロレスが王座を返上し、休眠状態にあった同王座を復活させようとするプランが持ち上がったが、こちらは立ち消えとなり、独自の王座(SWSジュニアヘビー級王座)を認定している。

歴代王者

以下の表は、歴代王者の記録をまとめた表である。王者が王座返上した場合は、新日本プロレスの次シリーズで王座決定戦が行われた。
それ以外は、すべて前王者に勝利してのタイトル移動。
レスラー戴冠回数防衛回数獲得日付獲得した場所 / 対戦相手・その他
初代ジョニー・デ・ファジオ1不明1965年10月15日 
第2代カルロス・ホセ・エストラーダ101978年1月20日ニューヨーク州ユニオンデール / 王座決定戦(相手はトニー・ガレア
第3代藤波辰巳1241978年1月23日ニューヨーク州ニューヨーク MSG
第4代剛竜馬101979年10月2日大阪府立体育館
第5代藤波辰巳2281979年10月4日蔵前国技館 / 藤波のヘビー級転向により王座返上
第6代タイガーマスク161982年1月1日後楽園ホール / 王座決定戦(相手はダイナマイト・キッド)、負傷のため王座返上
第7代ブラック・タイガー101982年5月6日王座決定戦(相手はグラン浜田
第8代タイガーマスク2161982年5月26日大阪府立体育館 / 試合中に負傷(頚椎挫傷)のため王座返上
第9代タイガーマスク311983年6月12日メキシコメキシコシティ / 王座決定戦(相手はフィッシュマン)、引退のため王座返上
第10代ダイナマイト・キッド111984年2月7日1984年1月、9名による王座決定リーグ戦の末 勝ち点31で三選手が並び三つ巴戦となる
蔵前国技館 / デイビーボーイ・スミス、ザ・コブラ
第11代ザ・コブラ121984年12月28日ニューヨーク州ニューヨーク MSG / 王座決定戦(相手はブラック・タイガー
第12代ヒロ斎藤131985年5月20日広島県立体育館
第13代ザ・コブラ231985年7月28日大阪城ホール / 新日本プロレスとWWFの提携終了により王座返上

 

Wikipediaより
 
海外製。
全長約1,300mm。
重量約3.1kg。
ストラップ本革。
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北米タッグ王座

NWA北米タッグ王座(エヌダブリューエーほくべいタッグおうざ、NWA North American Tag Team Championship)は、かつて全米各地に存在していたプロレスタッグ選手権であるが、本項では新日本プロレスが管理していたものについて扱う。NWAによる認定とされていた。新日本プロレス初期の1974年から1981年まで、同団体のタッグにおけるフラッグシップ・タイトルであった。新日本プロレスの管理下に入るまでの来歴には不明点が多い。

由来

同王座が日本に初めて紹介されたのは1973年8月、ロサンゼルスオリンピック・オーディトリアムにおいて新日本プロレスアントニオ猪木坂口征二が王者のジョニー・パワーズ&パット・パターソンに挑戦した際である。挑戦者組が勝利するが、3本目が反則勝ちのためにルールにより王者組の防衛となった。これ以前にパワーズとパターソンがアメリカでこの王座を獲得・防衛した記録は見当たらず、このタイトルはこの試合のために創作されたものと見られている。

同年12月に王者組が来日、大阪において猪木&坂口が再び挑戦するが、獲得は逃した。翌1974年6月に新王者のクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツが新王者として来日、猪木&坂口が挑戦するがまたも獲得を逃す。同年8月16日、再びオリンピック・オーディトリアムで4度目の挑戦を果たして王座を獲得した。

ヘスとショッツは、もともとNWF世界タッグ王者として来日する予定であったといわれる。このチームがアメリカおよびカナダでパワーズ&パターソンから王座を獲得した記録がないことから、パワーズ組とヘス組の王座は別物であるとする見方もある。しかし、昭和の時代においてはパワーズ組→ヘス組→猪木組への王座変遷が通説として語られてきた。

また、同王座は「NWA認定」とされてきた。猪木組の王座獲得の時点で新日本プロレスはNWA非加盟であったが、獲得の舞台となったロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)のプロモーターであるマイク・ラベールはNWA会員であり、新日本プロレスへのブッカーも務めていたことから、ラベールによってNWA認定の形をとっていたものと思われている

歴史

アントニオ猪木&坂口征二が獲得してからは、新日本プロレスのタッグにおけるフラッグシップ・タイトルとして王座戦の歴史が重ねられていった。しかし当時の新日本プロレスは外国人レスラー招聘力が弱く、挑戦者もエース級のリーダーに対してパートナーが弱体の即席コンビが多かった。獲得から1年後の1975年8月1日、同じロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにて、数少ない名コンビの挑戦者であるハリウッド・ブロンドスジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)の挑戦を受けた試合がノーコンテストとなり、日本で王座決定戦が行われることになる。しかし、猪木は負傷のため出場を辞退、代わって新日本プロレス入団まもないストロング小林が坂口と組み、9月22日に名古屋で決定戦に挑むも敗退、ブロンドスに王座が移るが、10日後の10月2日に大阪で猪木&坂口が王座を奪回している。猪木&坂口の戴冠時の主な挑戦者チームには、ニコライ・ボルコフ&シーク・オブ・シークス・オブ・バグダッドハンス・シュミット&ブルート・バーナードイワン・コロフ&グレッグ・バレンタインなどがいる。アンドレ・ザ・ジャイアントも、ロベルト・ソトトニー・チャールズをパートナーに起用して挑戦した

1976年2月に猪木の王座返上を受けて、2月5日の札幌での決定戦に勝った坂口&小林のパワー・ファイターズが新王者となった。この時代には挑戦者組も充実し、ペドロ・モラレス&ビクター・リベラ、コロフ&スーパースター・ビリー・グラハムなど、アメリカでもタッグとしての実績のある一流チームを相手に防衛戦を行っている。1977年には新日本マットでヒールのトップチームとなったタイガー・ジェット・シン&上田馬之助と抗争を繰り広げた。王座を奪われ、猪木&坂口が挑んだこともあったが、最終的に坂口&小林が奪回している。坂口&小林時代の主な挑戦者チームとしては他にブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスパット・パターソン&ラリー・ヘニングスタン・ハンセン&ザ・ハングマンピーター・メイビア&ヘイスタック・カルホーン、バーナード&キラー・カール・クラップ、上田&サンダー杉山ボブ・ループ&クルト・フォン・ヘスなどが挙げられる

坂口&小林は1979年4月5日にヒロ・マツダ&マサ斎藤に敗れ王座転落、3年におよぶパワー・ファイターズの時代は終焉した。同年6月15日、坂口は長州力を新パートナーに王座を奪回、長州にとっては日本での初戴冠であった。7月6日の初防衛戦において、小林は木村健吾をパートナーに新王者チームに挑んだが、長州に決勝フォールを奪われ敗退した。以降は坂口&長州が2年にわたり王座を堅持し、シン&斎藤、ワイルド・サモアンズアイアン・シーク&スーパー・デストロイヤーなどの挑戦を退けたが[2]、強力な挑戦者チームは多くはなかった。1981年3月20日、会津でのシン&ドン・ムラコとの防衛戦を最後にIWGP提唱に伴って猪木のNWFヘビー級王座等と共に返上、封印された。なお、IWGP構想は当初シングルだけで動いており、IWGPタッグ王座が創設されたのは1985年のことである。

歴代王者

歴代選手戴冠回数防衛回数獲得日付獲得場所(対戦相手・その他)
初代ジョニー・パワーズ&パット・パターソン1 1973年8月 
第2代クルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツ1 1974年5月 
第3代アントニオ猪木&坂口征二1 1974年8月16日カリフォルニア州ロサンゼルス、王座返上
第4代ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ1 1975年9月22日名古屋
第5代アントニオ猪木&坂口征二2 1975年10月2日大阪、王座返上
第6代坂口征二&ストロング小林1 1976年2月5日北海道タイガー・ジェット・シン&ブルータス・ムルンバとのトーナメント決勝戦
第7代タイガー・ジェット・シン&上田馬之助1 1977年2月2日大阪
第8代坂口征二&ストロング小林2 1977年7月28日福岡
第9代ヒロ・マツダ&マサ斎藤1 1979年4月5日東京
第10代坂口征二&長州力1131979年6月15日カリフォルニア州ロサンゼルス、IWGP構想により王座封印

 Wikipediaより