ジャズライブコンサート「邂逅」 ―― 沖至・佐藤允彦それぞれの軌跡 | 俳茶居

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ジャズライブコンサート「邂逅」 

―― 沖至・佐藤允彦それぞれの軌跡

ライブハウス「公園通りクラシックス」(2018.10.7撮影)

 

2018年10月7日、渋谷公園通りのライブハウス「公園通りクラシックス」。再開発で荒野と化した渋谷公園通り、コンクリートの地面をこじ開け咆哮する二人の熱いメッセージを聴くことが叶った。70代後半にさしかかった二人は、半世紀という時間をゆっくり噛みしめながら、互いをリスペクトし最後の曲「愛の讃歌」まで、私達と魂の会話を続けた。

二人にとり、半世紀の互いの不在は、それぞれ別の人生を逞しく生き抜いた歳月でもあった。ソロパートを受け渡す時の優しいしぐさや表情がそのことを物語っていた。二人が受け渡したものは何か。彼等にしか分からない感情を溶かしながら即興ソロパートは繰り返され、その溶かされた二人の想いを私達は享受した。80℃で淹れた煎茶のように、少し苦くそして十分温かかった。

今回の仕掛け人、故・副島輝人氏の弟副島恒次氏は、既に来年「ピット・イン・ニュージャズ・ホール」誕生より半世紀を記念し、企画を進行させている。お蔭で私達には、来年までの希望と励みを手にすることが出来た。どんな企画のライブコンサートになるのか。今から楽しみにしている。

「邂逅」を遂げた沖至(中)、佐藤允彦(右)、副島恒次(左)氏。(打ち上げ会場にて)

 

「ピット・イン・ニュージャズ・ホール」は、東京新宿紀伊国屋書店裏、ジャズライブハウス「ピットイン」2階で196911月、日本フリージャズのオルガナイザー副島輝人氏の手により始まった。19715月終了までの約2年、日本のフリージャズを牽引する重要な場所となった。今年(2018年)で誕生より49年、来年には半世紀を迎える。自分達のオリジナルジャズを求め、作り手と観客が互いに燃える鋼鉄の様に鍛え合う場所は、新宿と言う街とその街に屯する者達に支持された。1969年結成された「実験的音響空間集団『ESSG』(富樫雅彦、高柳昌行、佐藤允彦、沖至、高木元輝)」。彼等はまさしく日本のフリージャズを牽引した中心メンバーであった。その中の二人、沖至と佐藤允彦。既に天才ドラマー富樫雅彦が逝き(2007年)、日本フリージャズの仕掛け人副島輝人(2014年没)も旅立っていた。

1969年春、就学の為上京した私は、間もなく学生側のバリケードストライキに遭遇する。そんな大学をよそ眼にアルバイトに精を出した。そして手にしたなけなしの金で東京を散策した。新宿は地方出身者に優しい街であった。一大歓楽街であり、文化・芸術・風俗の前衛のであった。時代を変えようとする者たちの多くが新宿を目指した。芸術と政治は妙な均衡を持ち、破壊の対象とされ再生の産声を上げる街であった。音(音楽)が氾濫する新宿。歌声喫茶は残っていたが、カラオケの店はまだ登場していない。歌謡曲、クラシック、ロック、フォークソング、シャンソン、ジャズと音楽は街に溢れていた(人々はよく好きな歌を口ずさみながら歩いていた。)。新宿西口広場で、学生や若者達が反戦歌を歌う路上ライブが、毎週末開かれ聞きに行った。ディスコスタイルの店も若者に人気だった。田舎の高校生だった頃、私はソニーのトランジスターラジオから聞こえる音楽に耳を澄ましていた。ビートルズ、ローリングストーンズ、美空ひばり、藤圭子、岡林信康、ボブ・ディラン、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス等、聞こえてくる音楽はなんでも聴いた。大橋巨泉がジャズを解説しながら聞かせるラジオ番組があり、それがモダンジャズとの出会いだった。

東京で暮しはじめた私は新宿を目指した。目指した一つに新宿ピットインがあった。辿り着いたピットインで聴いたのは、得体のしれない音楽だった。フリージャズとの出会いだった。モダンジャズを聴きに行ったのだが、よく聞いていたモダンジャズの名曲のコピーは、おまけの演目にすぎなかった。ピットインの現場は、自分たちのジャズを標榜するミュージシャン達の強烈なメッセージの発信所であった。たぶん副島輝人氏ともすれ違っていたに違いない。彼の弟副島恒次氏とは、1980年に始まった新宿2丁目の「居酒屋らいら」という粋なお店で出会った。すでに某テレビ局の名物プロデューサーであった氏は、自分の事を「カポネ」と紹介し、いまでも皆カポネと呼んでいる。沖至さんともカポネの紹介で80年代後半「居酒屋らいら」で出会った。それから日本ツアー(沖至はパリに住んでいる)には、東京のどこかのライブに出かけ挨拶するようになっていた。

沖至、佐藤允彦の邂逅は49年ぶりの温かい事件であった。         俳茶居