茶聖陸羽生誕の地 湖北省天門で考えたこと  その③ | 俳茶居

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茶聖陸羽生誕の地 湖北省天門で考えたこと  その③

〈歴史に「たられば」は無い。陸羽の人生は苦難に満ちていた。出生、幼児期からして尋常ではない。成長過程で前章に挙げた人物達に出会わなければ、茶聖陸羽は誕生していない。同時に中国史上最大とも言われる内乱「安禄山の乱(安史の乱)」が無ければ又、陸羽の素晴らしい業績の姿は変わっていたに違いない。〉

 

安禄山の乱(安史の乱)と陸羽 

ソグド人と突厥族の血を引く北方三節度使(地方政治・軍事の長、この時代全国十節度使に分割)安禄山は、盟友史思明らの進言を受け、悪政を続ける宰相楊国忠を倒す大儀名分で755年11月挙兵、長安に向う。一ヶ月で副都洛陽を陥落させ、大燕聖武皇帝を名乗る。玄宗皇帝は蜀に逃げおちる。途上馬嵬(ばかい)で、乱の原因を作った楊国忠一族は殺害され、楊貴妃も殺されてしまう。玄宗は退位し、皇太子李亨が即位して粛宗となる。756年6月、安禄山は長安攻略に成功するが、やがて病で失明し、暴虐な振る舞いが公私に現れ、息子安慶緒に殺されてしまう(759年)。安慶緒は大燕皇帝に就くが重臣の反発を買い、頼みの史思明は范陽に帰還し自立してしまう。反乱軍の分裂に乗じ粛宗は、ウイグル族に援軍を得て長安を奪回、安慶緒は洛陽に逃げ落ちる。史思明は降伏の態度を取るも上皇(玄宗)に近い要人による自身への殺害計画を知り、降伏を撤回し759年安慶緒を攻め滅ぼし大燕皇帝を名乗る。しかし史思明も息子史朝義との不仲から、761年息子に殺害されてしまう。反乱勢力は弱体化し、洛陽から范陽に逃れようとするが、763年李懐仙の軍に史朝義軍は破れ、安史の乱は終結をみる。

唐時代の人口統計。

玄宗天宝14年(755年) 戸数:8,914,709 人口:52,919,309 出典:通典・食貨

代宗広徳 2年(764年) 戸数:2,933,125 人口:16,920,386 出典:旧唐書・代宗 紀

穆宗長慶元年(821年) 戸数:2,375,805 人口:15,762,431 出典:旧唐書・穆宗 紀

中国各時代の人口調査は、税制・兵役等を目的にしている事が主で、調査逃れをする民衆が多く(特に安史の乱以降)いて、史書の人口を鵜呑みにはできない。漢民族以外の戸籍対象外者の範囲への考慮も必要。764年の統計は、安史の乱が終わったすぐ翌年で、調査の条件が755年と同様に出来たとは思えない。しかし統計上は3,600万人(755年の約7割)が減少している。数字に疑念を持つとしても大内乱であったことは事実。膨大な人的被害があったと考えて間違いない。茶聖陸羽誕生の背景には、多大なる苦難の時代を生きた唐代の人々の呻吟が聞こえてくるのである。

陸羽が育った西塔寺(当時は竜蓋寺)境内