映画監督の死 | 俳茶居

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映画監督の死


 

若松 監督の通夜に参列した。(2012年10月23日18:00。告別式は、明日24日10:30。通夜・告別式共青山斎場にて)。

若松孝二監督とは、新宿のとある居酒屋で20年以上前に遭遇した。何時しか名前を名乗り挨拶をするようになり、何時しか時々会話をし、そして酒を飲んだ。監督は不死身の人と思っていた。肺がんを克服し、脳こうそくにも負けなかった。今回もきっと不死鳥の如く蘇ると信じていた。だが、結末はあっけなくやってきた。大勢の監督のファン同様、やるせない日々が続いている。


 

作品を世に送り出すことはまさに勝負をしていることなのだが、監督にはそんな中でもいつも余裕が感じられた。そして今の作品が評価されている時すでに、次の作品のことそのまた次の作品の話をしていた。

ある時「 のことは、俺にしかできない。」と言い切り、その映画は制作された(2007年)。ラストの浅間山荘シーンでは、自分の山荘を実際に破壊して撮影する行為にでた。その時語ったことは「儲かれば又作れる」だった。監督はこの作品を、体制側から見れば大悪人である連合赤軍の兵士達を彼らの側から撮りたかったと言っていた。彼らが何故そのような軌跡をたどったのか、何故内部粛清を続けたのか。そのことを描かなければ、彼らの考えの真の誤謬や、同志達の死は浮かばれないと考えたのである。かくして迫真の映画は「実録・連合赤 あさま山荘への道程 」の題名で完成し、20082月第58回ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞と国際芸術映画評論連盟賞を受賞する。日本では毎日映画コンクールで監督賞、日本映画評論家大賞で作品賞を受賞することとなった。新宿での映画公開初日、舞台挨拶に立った監督と俳優達(ほとんどが事件当時生まれていなかった。)は、幾多の困難を乗り越え映画を完成させた同志として、晴れやかに整列していた。

2012年「海燕ホル・ブルー 」、「11・25自決の日 島由紀夫と若者たち 」と続けて公開、すでに次回(2013年)公開の「 」も完成していた。監督急いでいるのかなと思っていた矢先の訃報となった。新宿の街で監督の姿をもう見ることは出来ない。

*若松孝二監督と出会ったお店『居酒屋・L』も今は無い。この店でたくさんの人に出会い、たくさんの話をした。お店での31年の出来事は、一本の映画にできる程だ。監督はもちろん若松孝二しかいない。 合掌