茶聖陸羽の生涯 | 俳茶居

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                    陸羽画

茶聖陸羽の生涯 6回シリーズその②)



その弐 青年期、そして内乱の時代へ



751年、19歳の陸羽は火門山での鄒夫子の下での勉学を終え竟陵へ戻ります。李斉物はすでに都に戻っていました(749年)。翌752年竟陵の司馬として崔国輔(さいこくほ)が左遷されてきます。崔国輔は王(おうきょう)の謀反事件に連座し左遷されました。宰相李林甫の権力に翳りが見え代わりに玄宗皇帝の寵愛を受けた楊貴妃とその一族の力が台頭してきています。752年李林甫が死に、楊一族の楊国忠が宰相の座に付きます。そんな政情の中、崔国輔は司馬(警察署長)として竟陵にやってきます。そこで崔国輔は陸羽と出会い、文人として対等に付き合うこととなります。火門山で学問を修めた陸羽は詩人でもあった崔国輔と十分渡り合える知識や才能を持っていたと考えます。



時代はいよいよ暗く

世の中はいよいよ暗い時代に入ります。左遷ならまだ良いほうかもしれません。陰謀渦巻く政治の世界でおびただしい人たちが殺されていきました。猜疑心の強かった宰相李林輔の取った政策でその後禍根を残すことになります。742年中国全土を10の節度使に分け直します(その長も又、節度使と呼びました)。彼は節度使には非漢族をあて、朝廷での自分の地位を脅かさないようにしました。また玄宗皇帝が天下に人材を求めた試験を全国で行なった時、李林輔は全員を落第にし、玄宗皇帝には「野に遺賢なき事を賀す(才能あるものは既に登用されており、在野に賢人はいない)。」と報告し、優秀な人間が登用されることを恐れました。

宮廷では楊貴妃が寵愛され、権力の座にあった李林輔の死(752年)のあと宰相になった楊国忠とその一族はわが世の春を謳歌していました。爛熟した唐の情勢を一変させる事件が勃発いたします。安禄山の変(安史の乱)がそれです。唐の国をゆるがし、陸羽の人生も大きく変えていった乱の中で、20代の彼は人の幸せ、人生の価値について考えさせられたことでしょう。安禄山の変の後期(760年頃)に書かれたと言われている『茶経』の言葉に、茶を愛する理想の人間像を「精行倹徳之人」(品行がよく倹約の徳を持つ人。お茶はそのような人にこそふさわしいと書いています。)〈茶経一之源〉   (続く)



*「茶聖陸羽の生涯」は日本中国茶普及協会発行の会報(年2回発行)に発表したものに一部加筆、変更したものです。