フォトギャラリーは80年5月24日赤いドレスの女? 写楽掲載の写真で「This is my trial」ジャケの別カットですね。
プレイバック百恵の言葉は「人生」です。ごく普通の女の子山口百恵が芸能人になれたのは、「スター誕生!」のおかげで、そこに応募すると決めたのは百恵本人だ。
応募ハガキを一緒に出した友人たちは、当日になって怖気づいたのか行けないと言い出したが、それでも百恵はひとりで予選会場へ向かった。「以前の私は、何もしないで後悔するより、何か行動を起こして後悔するほうがいい、と思っていた。いってみれば、これが私の人生哲学だった」と、引退後の雑誌に記すが、13歳の時点でこの人生哲学を持っていたからこそ、ひとりでも予選会場へ向かったのだ。もし「それなら私も行くのやめるわ」となっていたら、「赤いシリーズ」も「横須賀ストーリー」もなかったのである。
スターとなった後も、ジャンルの違う宇崎竜童、さだまさし、谷村新司らの曲を歌いたいと言い、自分のバンドでツアーしたいと主張した。そして当時の芸能界としては前代未聞の恋人宣言をして、引退・結婚と決断した。
だが、引退後の百恵はこの哲学を貫けなくなった。マスコミに報じられるのを警戒し、外に出なくなってしまい、とくに子どもが生まれてからは「日常の暮らしが穏やかであればあるほど、シャッターの音やカメラという眼が気になって臆病になってしまっていた」という生活になる。出かけてマスコミに追いかけられて家に戻り、「一番したくなかった後悔を何度もした」という。
10代半ばにして百恵は「人生哲学」を持って行動していた。百恵なき後の芸能界はいまも、そうでなければ生きていけない世界なのかもしれない。と話しています。
曲は77年5月「百恵白書」から「ミス・ディオール」をどうぞ。ベスト50アンケートじゃ予選敗退だったかな? こんな宇崎・阿木の傑作を、「百恵哲学」を持って18歳で完璧に歌いこなしました。
★ミス・ディオール★
正真正銘、この撮影が「山口百恵」を撮る最後になった。
初めての撮影は中3のとき。白いセーラー服を着て
ハンカチで汗をぬぐう可愛い「百恵ちゃん」だった。
あれから7年、あっという間を百恵さんと一緒に走り抜けた。
70年代という時代が終わる。
by 紀信