見えないものを見るのは難しい。
福島の原発の放射能汚染は人々を恐れさせている。
海外にいたっては風評により日本の評価はひどいものだ。
原因は起こっている事象が見えないものだからだ。
人々はそれらを安心させるために“見える”ようにする。
データで表したり、とりあえずの計画を示したり。
ところが住民にしたら必要なのはそんなことじゃないはずだ。
実は我々、被害を受けていない地域の人間にとっても
一番知りたいはずの真実が見えない。
メディアで飛び交う数値や文面をただ目で追うばかりだ。
さらには、震災当初の惨状に人間的な衝動に
煽られる心が起こした募金や、物品支援でひと段落ついている自分がいる。
我々は、いわゆる氷山の一角しか見ていないということも実感としてない。
大切なものはその下に隠れてるはずだ。
とても大切なことが。
たくさん。
そんなことを考えていた時、ふと試験のことについて考えた。
ペーパーテストによって判断される受験生はいわゆる点数という見えるもので計られる。
それが一番確実に人を切り捨てられるからだ。
同じく社会のあらゆるところで判断手段として見える評価が励行されている。
子どもの評価、教師の評価、会社員の評価・・・。
数値化され、見えるもので人を判断してゆく。
それがどんな人間を作り、どんな社会を作ってきているか。
大切にしたいことがある。
“見えないものを見ようとすること”。
それはつまり物事の本質を見ようとすることだ。
物事の大本のところは何なのか。
違う角度から見たらどうなのか。
過去や未来の視点から見たらどうなのか。
見えないものはなかなか見ることが難しい。
けれども見ようと努力し、
あらゆる物差しを自らに課し、物事を捉えたい。
現実は、人は見えることに走りがちだ。
もちろん見えることも大切なことであり、世の摂理ではある。
しかし、それが全てではないことを分かって行動したい。
今年の春も桜の花が一瞬の輝きを見せ、散った。
しかし、そこに至るまでその木々、一本一本にどんなストーリーがあり、
その花を咲かせた木の土の中にどれだけの根が張っているのか。
ほとんどの人はそこまで思いは馳せないだろう。
その見えないところにこそ、
桜の花一輪一輪の真実はあるはずだ。
何かが起こってからでは遅いことを今回の震災で痛いほど分かったはず。
何を大切にしなければならないのか。
一人ひとりがよく考えて、実際に行動に移さない限り
また同じことの繰り返しになる。
とりあえず目の前にいる人や物事の
見えないところを見る
努力をしてゆきたい。