2012年が始まった。


今年はこれからの基盤を固めていく大事な年になる。


仕事、家庭、将来の夢・・・。



大切なのは、


自分の意志で決断し、行動に移し、それを続けること。



世に言う、天才とか才能はふって湧いたものではない。



「○○したい」、「○○になりたい」


などの言葉は口先だけで終わらせてはいけない。


大事なのは、それを本当にやっているかどうかだ。



できないことにいろいろな言い訳をつけてあきらめたり、自分をごまかしたり。


できている人を羨むのは簡単。


なんだかそれは自分の人生の価値を自分で縮めているだけ。



他人と比べなくなったときに、初めて自分を好きになれるはず。



有言実行。


知行合一。


自分を律して、小さなできることをコツコツ行動に移していくことでしか


成長はない。


世の中も変わらない。



自信は誰かから与えられるものじゃない。


自分で積み上げるものだ。



弱い自分と闘い続けることからしか生まれない。


とりあえず、受動的、惰性的なテレビの時間を消そうかな。


自分が欲するものと向き合う時間をしっかり作っていきたい。


その時間の積み重ねが揺るがない生きる基盤となるだろう。



今年も真剣に生きます。







自分の思う正しさを相手に押し付けることこそ迷惑な話はない。


大抵そういう人は自己中心的で、相手の気持ちや立場を慮る余裕もない。



彼らがよく使う手段。


甘えることで同情を買う。


相手の思いやりを逆手に取る。



発展途上国が支援をゆするのも、その一例だ。


「我々はこんなに貧しい。だから、これだけの支援が我々には必要だ。これとそれとあれをくれ。」


ひどい場合となると、


「なぜあの国のNGOは何も支援してくれないんだ。

こんなに俺達は苦しい生活をしているのに助けようともしないなんて、何をしに来ているんだ。」

などと怒りをあらわにする始末。


誰がこんな国を助けたいと思うだろうか。


そもそもこのような言葉を吐く人は根本のところを履き違えてしまっている。


自助努力あっての支援ではないのか。


このような言葉を吐く人に限ってまず自分の足で立とうとしていない。


巧みに自分への甘えを他人に責任転嫁させる。


自分は困難に立ち向かおうとせず、努力もせず、人の思いやりに寄りかかる。


それが他人に負担を負わせていることなど気にもかけない。


まるでそれが当たり前かのようにふるまえる。



彼らにはどうしたら自分の足で立つことの大切さを分かってもらえるのだろう。


彼らの言いなりに、また自分たちの都合で援助してきた側にも原因はある。



人と人は支えあって生きているのは確かだ。


でも、それはなれ合いの関係ではない。


根底にはその人それぞれが独立した精神、自分の足でまず立つんだ、という心がけが不可欠だ。


そのうえで互いに支えあおうという気持ちが自然と生まれる。


それが、思いやりだ。



思いやりは他人に強要するものではない。



バスに乗って、立っているのはしんどいから座っている人に「のいてほしい」と言うのか。


退かないその人を「こんなに俺は疲れているのに何でお前はのかないんだ」と責めるのか。



重い荷物は私には大変だから「お前が持て」と言うのか。


持たない相手を「なんて思いやりしらず」と責めるのか。



バスや電車で帰るのは面倒だから「車で迎えに来い」と言うのか。


迎えに来ない相手を「こっちは大変なのに知らんぷりで考えられない」と責めるのか。



これらに欠けているのは


まず自分で立つという姿勢だ。


できるのにやっていないだけだ。やろうとしていないだけ。


自分に相手に甘え、まず相手を責め、自己防衛、自己正当化してしまっている。


「私のことを考えない、お前の方が悪い」と。



強要した思いやりで相手に重荷を背負わせているなんて、その時点で主従関係となっている。


おそらく「思いやり」という印籠を片手に相手の「思いやり」への負い目を利用し、従わせ続けるつもりだろう。


こんなことで互いに信頼し、和やかな関係が築けるわけがない。



つらそうにしているのに気づいたから


席を立ってあげる、手を貸してあげる。


「どうぞ。」と言い、「ありがとう。」と答える。


和やかな空気がそこに生まれる。



思いやりは相手から生まれるもの。


思いやりには温かさがある。



そんな思いやりを当たり前とせず、素直に感謝できる謙虚さをいつまでも持ち合わせたい。


そして、そのための基本は自分が自律(自分を律する)ことにあることを肝に命じていたい。


真に相手を理解し、助け合えるのはそこからしか始まらない。


本当の意味で人と人が支えあって生きていく社会をつくっていくには


自分がどう生きなければいけないか、もう一度、真剣に考えたい。













公園で子どもが泣いていた。


悪いことをしたと見られる方の子どもがお母さんに「謝りなさい!」と怒鳴られていた。


おそらく子ども同士でけんかでもしたのだろう。


その子は釈然としない様子だったがそっぽを向きながら「ごめん」と言っていた。



このシチュエーション。


どっかで見たことがあると思った。



ここ何年か、大人たちがマスコミの前で頭を下げる映像をたくさんみているような気がする。


企業の不祥事、政治家の暴言・汚職、芸能人・スポーツ選手の失態 ・・・。


彼らは見つかったからこそ謝罪した。


世の中に「謝れ」「誠意をみせろ」と言われるから頭を下げた。


そこには「謝っておけばいい」という空気が見え隠れする。


そうして大人は簡単に頭を下げ続ける。


何事もなかったかのようにまた事は続けられる。



私は思う。


本当に悪いのは謝る大人たちだけなのだろうか、と。


“嘘”の言葉で済ましてしまっている我々にもまた問われるべきことがあるのではないか。


とりあえず謝らせる姿勢をとらせることでよしとしてしまってはいないか。


実はその謝らせることが手っ取り早く、分かりやすい。


でもそれでは本当に大切なことはないがしろにされてしまっている。



必要なのは、お互いが素直な状態で向き合い、対話し続け、新しい解決策を考えることだ。


けど、これはしんどい。時間がかかるし、互いに傷つくこともある。


だから、それにかまい続けられない。


多忙で、信念も気概も大らかさも持たない社会はそれを避け続けている。


そうして“嘘”の言葉は続く。



人の感情は他人が強要することで生まれるものではない。


その人自身の内面から湧き上がってくるものだ。


そこからしか本物の言葉は生まれない。



今の世の中には随分、他人から強要されている言葉が多いように思う。


だから、空虚で、上っ面で、ぬくもりがなく、冷たさが漂う。



泣かせてしまった子どもが本当に悪いと思った「ごめん」しか本物じゃない。


冒頭の母親は形式上の「ごめん」でも安心してしまっているかもしれない。


しかし、「ごめん」と言わせた子どもを傷つけてしまっていることに母親が気づいていないのは


彼が成長していく上で大人として致命的なミスを犯している。


なぜならその子は偽りの言葉で狡猾に事を済ませることを覚えてしまったから。


その言葉に嘘はないか。


その言葉は本物か。


それを聞き分けられる人でいたい。



易きに流れず、


本質を考える労力を厭わずに向き合うことから逃げてはいけない。