自分の思う正しさを相手に押し付けることこそ迷惑な話はない。
大抵そういう人は自己中心的で、相手の気持ちや立場を慮る余裕もない。
彼らがよく使う手段。
甘えることで同情を買う。
相手の思いやりを逆手に取る。
発展途上国が支援をゆするのも、その一例だ。
「我々はこんなに貧しい。だから、これだけの支援が我々には必要だ。これとそれとあれをくれ。」
ひどい場合となると、
「なぜあの国のNGOは何も支援してくれないんだ。
こんなに俺達は苦しい生活をしているのに助けようともしないなんて、何をしに来ているんだ。」
などと怒りをあらわにする始末。
誰がこんな国を助けたいと思うだろうか。
そもそもこのような言葉を吐く人は根本のところを履き違えてしまっている。
自助努力あっての支援ではないのか。
このような言葉を吐く人に限ってまず自分の足で立とうとしていない。
巧みに自分への甘えを他人に責任転嫁させる。
自分は困難に立ち向かおうとせず、努力もせず、人の思いやりに寄りかかる。
それが他人に負担を負わせていることなど気にもかけない。
まるでそれが当たり前かのようにふるまえる。
彼らにはどうしたら自分の足で立つことの大切さを分かってもらえるのだろう。
彼らの言いなりに、また自分たちの都合で援助してきた側にも原因はある。
人と人は支えあって生きているのは確かだ。
でも、それはなれ合いの関係ではない。
根底にはその人それぞれが独立した精神、自分の足でまず立つんだ、という心がけが不可欠だ。
そのうえで互いに支えあおうという気持ちが自然と生まれる。
それが、思いやりだ。
思いやりは他人に強要するものではない。
バスに乗って、立っているのはしんどいから座っている人に「のいてほしい」と言うのか。
退かないその人を「こんなに俺は疲れているのに何でお前はのかないんだ」と責めるのか。
重い荷物は私には大変だから「お前が持て」と言うのか。
持たない相手を「なんて思いやりしらず」と責めるのか。
バスや電車で帰るのは面倒だから「車で迎えに来い」と言うのか。
迎えに来ない相手を「こっちは大変なのに知らんぷりで考えられない」と責めるのか。
これらに欠けているのは
まず自分で立つという姿勢だ。
できるのにやっていないだけだ。やろうとしていないだけ。
自分に相手に甘え、まず相手を責め、自己防衛、自己正当化してしまっている。
「私のことを考えない、お前の方が悪い」と。
強要した思いやりで相手に重荷を背負わせているなんて、その時点で主従関係となっている。
おそらく「思いやり」という印籠を片手に相手の「思いやり」への負い目を利用し、従わせ続けるつもりだろう。
こんなことで互いに信頼し、和やかな関係が築けるわけがない。
つらそうにしているのに気づいたから
席を立ってあげる、手を貸してあげる。
「どうぞ。」と言い、「ありがとう。」と答える。
和やかな空気がそこに生まれる。
思いやりは相手から生まれるもの。
思いやりには温かさがある。
そんな思いやりを当たり前とせず、素直に感謝できる謙虚さをいつまでも持ち合わせたい。
そして、そのための基本は自分が自律(自分を律する)ことにあることを肝に命じていたい。
真に相手を理解し、助け合えるのはそこからしか始まらない。
本当の意味で人と人が支えあって生きていく社会をつくっていくには
自分がどう生きなければいけないか、もう一度、真剣に考えたい。