どうしてこんなに心が動かされるのか。


たまたまYou tubeで彼の魂の声を聞いていた。


自分が好きなことをただ続けさせてほしい、とあまりに愚直な言魂を。


純粋に、一途に、熱く。


そんな生き方が心の琴線に触れていたのだと思う。


それだけに・・・。



命はこんなにも儚いのか。



若くして志半ばで倒れた彼にもらったこと。



生きているという当たり前がどれだけありがたいことか。


彼は生きていればどういう形であれ好きなことを続けていられた。


でも、もうそれはできない。


残した家族とも、もう触れ合えない、言葉を交わせない。




ただただ、生きていることに


大切な人たちと一緒にいられることを当たり前と思わず


大切に日々を過ごしたい。


ふとそれを思い返す時間を持ちたい。



自分を飾らず偽りなく正直に生き、


情熱を持ち続け、


俺も自分の魂を燃やし続けたい。




ありがとう。



A man who won`t die for something is not fit to live.


何かのために死なない人間は、生きるにふさわしくない。


                   マーチン・ルーサー・キング


アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための

非暴力抵抗運動を続けたキング牧師の言葉だ。



私は、「自分は何のために生きるのか」を考えてきた。

自分がこの世に生をなした意義を。

その答えを探し、導きだすために、人はいろいろなことを経験し、

年を重ねていっているのだと思ってきた。



でもなんだか最近、その問いよりも大切なことがあるような気がしてきた。



いきいきと生きている人たちを見て共通していることがある。


好きなことをしている。

好きだからそれを続けている。

それがその人の力となっている。

自然とそれを人が求める。

人のためになる。


逆説的に考えると


人のために生きることでいきいきと生きられる


これは間違いないんじゃないかな。


人に必要とされたり、人のためになるってうれしい。

自分のためだけに生きていても虚しくなる。



今の世の中の大人たちの醜い行為の数々。

これは自分のことばかり考えているから生まれる。



みんなが今の自分の生き方や仕事が

どうしたら人のためになるのか、ということを考えたら

少なくとももっとましな社会になるはず。


それは悲しみ、苦しむ人たちに目を向けるということでもある。



自分の生き方、仕事で

どれだけの人の笑顔と未来をつくりだすことができるか。


これがキング牧師の言葉の尺度ではないだろうか。



人のために自分は何ができるか。

何ができているか。

そのために自分は今、何をすべきなのか。

何をしているか。


それをこそ、人は問い続け、答えを探し、生きていく。


それを考えるのをやめることこそ、生きるに値しないのかもしれない。



まだまだ“何かのために”が確固たるものではない。


自分ができることを

少しずつ着実に積み上げていきたい。














初めて田植えをした。

足裏に伝わる何とも言えない泥の感触と

新たな命を植え付けている行為の新鮮さに
心臓の高鳴る鼓動が伝わる。

田植えをしている後ろで泥だらけになって、はしゃぎまわっている子どもたちにも

思わず笑みがこぼれる。

田んぼに30人ほどの大人数が、声を合わせ、歩調を合わせ、

等間隔に苗を植えていく。

人のつながり、自然とのつながりが心地よかった。

これが、まさに田植えの原風景なのだろう。





しかし、

これは今の稲作の農業スタイルではない。

効率生産主義の農業は、人と自然のつながりを極力避ける形に変化しつ続けている。

そして、その恩恵を受ける我々消費者は食卓に並ぶ食材が

どのようにしてできたのか、知らない。知ろうとしない。知る必要もない。

私は、田植えをしながら、今やっている作業と現実がリンクしなかった。

手軽さ、便利さ、快適さを追求するがあまり、

人は多くの大切なものを犠牲にしてきていることにも気付かなくなってきているようだ。





先日、テレビを見ていたらディズニーランドに通いつめる家族が特集されていた。

月に一回は家族で豪華なホテルに泊まり、ディズニーの世界の衣装に身を包み、

楽しんでいるという。
豪華なレストランでコース料理を食べ、特等席でショーを鑑賞し、最後は高級寿司で母を差し置き、一人娘は大トロで締め。




現実の世の中が忙しさに追われ、バーチャルになってきていて、

リアルな体験ができる場が乏しくなってきている。

だから、

人はどこかで非日常かつリアルな一体感があり、

身体性を伴う体験を求めている。

改めて田植えをしてみたいと思い、

ディズニーランドで楽しみたいと思うのはそのためだ。




しかし、どうだろう。

ディズニーランドのケースはリアルな体験もまた実はバーチャルであるというのは

皮肉ではないだろうか。

ディズニーランドだけではない。

テレビゲーム、マネーゲーム、インターネット、テレビ番組も然り、

大衆がはまっているそのほとんどがバーチャルの世界である。



今の世の中、仮想と現実の境目が非常に見極めづらくなっている。

ともすると仮想の方が、人にとっては手軽で、快適で、快楽的であることが

人の欲を刺激する。

そのため尚一層、人を短絡的に仮想へ走らせる。




問題は、現実を見る必要がない、見ないで済む社会になってしまっていること。

そんな社会に違和感を覚えなければいけない。

自分の身の回りにあるリアルは、自分の五感を通してでしか見つからない。



大切なのは、そこに実感があるかどうかだ。



苦しい、つらい、しんどい、痛い、気持ちいい、うれしい、楽しい、それがリアルだ。



リアルを自分で掴みにいけ。





燦々と降り注ぐ夏の太陽の下、

リアルなはずの田植えに現実との乖離を感じることに危機感を覚えつつ、



田んぼで泥まみれになり、カエルを追いかけまわして、

無邪気にはしゃぐ子どもたちに、小さいけど確かな明るい未来を感じた。