2020年東京オリンピックの闇とエシカルクリエイション(2) | "デザインってなに?"的ノート

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デザイン的な思考やものの見方、デザインそのもののことなどを話題にします。

 

2020年東京オリンピックが日本を代表する大手広告代理店によって、黒い霧に包まれて汚されることになったのはなぜでしょうか?

裏金による汚職事件は、

「贈賄側の企業が、高橋元理事に仲介を依頼することでスポンサーに選ばれたり、協賛金の額を抑えたりするメリットを享受し、組織委員会側は、少しでもスポンサー収入を上げることが必要で、高橋元理事がスポンサーを見つけてくることで、収入を増やすことができ、高橋元理事個人は、みずから交渉に関わることで多額の利益を得ていた」

というのが闇の構図のようです。

2020年東京オリンピックを巡る談合事件は、「不当な取引制限」として、業者同士が受注調整する談合や、価格協定などを結ぶカルテルなどを禁じる独占禁止法に抵触する重大な事件です。

2020年東京オリンピックは、多額の税金を投入する一大国家プロジェクトですから、高い公共性や透明性を伴う高いコンプライアンスが問われるはずです。

あるネットニュースには、『電通の現役社員は「コンプライアンスを重視しながらスポンサー集めに奔走していたのに、こんな事件が起きて腹立たしい」と憤りの声をあげていました』という記事が載っていました。

汚職事件に関わった、電通を初めとする大手広告代理店の一般社員の人々は、当然コンプライアンス意識は高く持っていたと思います。一体、2020年東京オリンピックを動かしていた大手広告代理店の幹部には何が欠けていたのでしょう?

それにしても、2020年東京オリンピックを巡る汚職事件には、多くの企業が関わっています。オリンピックといった一大イベントでは、多くのクリエイティブな仕事が絡み合います。この汚職事件は、クリエイティブな産業界の問題だともいえるでしょう。この事件を受けて、クリエイティブ産業界に今求められているものとは何でしょうか?


それは、ありきたりの表現で言えば「道徳性」とか「倫理性」、ビジネス的に言えば「高いコンプライアンス」ということかも知れませんが、「イベントをデザインする」という観点で見た時、「道徳性」とや「倫理性」、「高いコンプライアンス」というものがどのように作用していたか、その点が問われているように思えます。おそらく、実務的にイベントをデザインする現場の人間には、その辺の意識を高く持っている人が多くいて、トップ層にその意識が希薄な人が多かったのではないでしょうか?そして、トップ層とのパイプ役となる現場のリーダー格の人に強烈なリーダーシップを取れる人がいなかったということも考えられます。

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』という著書では、経営における「真・善・美」を判断する認識のモードとして「美意識」というものを定義しています。これを分類すると、以下のような「美意識」となります。

①従業員や取引先の心を掴み、ワクワクさせるような「ビジョンの美意識」
②道徳や倫理に基づき、自分たちの行動を律するような「行動規範の美意識」
③自社の強みや弱みに整合する、合理的で効果的な「経営戦略の美意識」
④顧客を魅了するコミュニケーションやプロダクト等の「表現の美意識」

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 』よりさらに引用します。

ヘンリー・ミンツバーグという経営学者は、経営は「アート」「サイエンス」「クラフト」が混ざりあったものだと主張しています。

ワクワクするようなビジョンを生み出すのが「アート」、
ビジョンに数値を用いて現実的な裏付けをするのが「サイエンス」、
ビジョンを現実化するための実行力を生み出す技術が「クラフト」

となります。

クオリティの高い経営をする為には、この3つのバランスが重要となります。「アート」に偏ればただのアーティストになりますし、「サイエンス」だけでは数値で示すことができないワクワク感やモチベーションは生み出せません。「クラフト」だけを重視すれば、既成技術だけにすがる傾向が強くなり、イノベーションは起こせないでしょう。

現在のほとんどの企業は、意思決定の際に「サイエンス」と「クラフト」に偏りがちだと著書は述べています。その理由は、「アート」では、その効用が科学的に説明できないからです。
しかし、「サイエンス」と「クラフト」が勝っている状況では、競合他組織でも同じような「サイエンス」と「クラフト」を用いるため差別化ができず、最後にはスピードとコストで戦わざるを得なくなってしまう状況となります。
その結果が、現場の従業員の疲弊と収益性の悪化を招くと著書では述べられています。2015年に起きた電通の社員が自殺した事件や、東芝の不正会計事件などがそれに当たるようです。

 

2020年東京オリンピックを巡る汚職事件に絡んだ企業の多くは、まさに「サイエンス」と「クラフト」に大きく偏っていて、「アート」意識が希薄だったと言えるでしょう。

2020年東京オリンピックも、もう3年前のことになりますが、現代の著名なデザイナー達は、このオリンピックでの出来事と現代のデザイン業界全体のことをどのように捉えているのでしょうか?そもそも現代デザインのあり方自体をどのように考えているのか、根本的な思想が問われているのではないかと思われます。