九州の戦国時代~耳川の戦い(大友宗麟VS島津義久)~キリシタン大名・大友宗麟の没落と島津の快進撃 | 歴探見るラジオ放送局

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織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破り、天下統一事業を完成させつつあった天正6年(1578年)頃、九州は豊後国を拠点する、キリシタン大名大友宗麟は、その勢力を著しく伸長させ、筑前、筑後、豊前、豊後、肥後、日向にまたがる大勢力になっていました。まさに九州統一を目前に控えたこの時、その野望に立ちふさがるものがいました。

 

 

 

鎌倉時代より薩摩を中心に、南九州一帯に根付いてきた島津家の当主、島津義久と、その3人の兄弟たちでした。島津氏との抗争に敗れた日向の伊東義祐が豊後に逃走したことで、義祐と関係の深かった大友宗麟は、島津征伐の大義名分を得て南下をはじめ、島津氏は存亡の危機に立たされます。そして起きた耳川の戦い。この合戦で、島津氏は自身が得意とする釣り野伏戦法により、華々しい勝利をかざり、九州の覇者としての地歩を築きます。

 

 

みなさんこんにちは!歴探見るラジオ放送局のそらです。今回は九州の戦国時代をテーマに大友宗麟と島津義久が戦った耳川の戦いを焦点にご紹介します。どうぞ最後までご覧ください。

 

この物語でまず最初に登場するのは大友宗麟です。彼は切支丹大名としても良く知られていますね。大友氏は鎌倉時代から豊後と筑後の守護職を任せられたほどの名家で、かつては鎮西奉行として、九州全土の武士たちを統括するほどだったといいます。宗麟は幼少の頃より気性が荒く、人望も乏しかったため、父の大友義鑑は廃嫡することを考えるようになりますが、「二階崩れの変」で父の義鑑と塩市丸が宗麟の家臣らによって殺害されたため、大友家の家督を継ぐことになります。


(解説)一般には大友宗麟の名で知られる人物ですが、「宗麟」というのは出家したあとの法名であり、元服したときは大友義鎮を名乗っていた。ここでは一般に知られている「宗麟」の名で話をすすめるものとする。


その後、宗麟は巧みな手腕により反宗麟派の家臣らを討ち滅ぼすと、次第に領国を広げ、最盛期には豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の六か国を束ねる大大名となります。そうした絶頂期にある最中、島津義久と敵対していた日向の伊東義祐が島津に敗れ、宗麟に救援をもとめてきます。そして天正6年(1578年)、宗麟は島津と対決するべく南下をはじめます。その際、彼はポルトガル人宣教師を帯同し、領内の寺社仏閣を破壊しながら進軍を続けたといいます。

 

(解説)大友宗麟がキリスト教に傾倒するようになった切っ掛けは、青年の頃にあった。宗麟16歳のとき、中国のジャンク戦が入港したときのことだった。船には中国人のほかに、6~7人のポルトガル商人がいたが、この時、中国人航海士から「彼らを殺して財産を奪い取ろう」と持ち掛けられた。父の義鑑はまんざらでもない態度を示したものの、この時父の近くにいた宗麟は、「遠路はるばるやってきた彼らを殺害するのはとんでもないことであり、むしろ保護すべき」であることを主張し、彼らを助けたという。後年、宗麟は「このときの善行によって、デウス様からキリシタンになる恩恵を与えられた」と回顧している。

宗麟のキリスト教への傾倒は深く、フランシスコ・ザビエルと出会ったときなどは、ザビエル一向を500人ほどの槍隊と共に出迎え、宴席ではザビエルの皿に自ら料理を取り分けるほど、手厚くもてなしたという。

 

その後、大友氏の領内には多くの教会が立てられ、領民や家臣らの入信も奨励されたが、それは仏教を信仰する家臣らの動揺へとつながり、家中の混乱ももたらした。島津氏との抗争もそうした空気のなかで行われた。

一方の島津義久はどうでしょうか?島津家は鎌倉時代に薩摩、大隅、日向の守護に任じられるほどの歴史ある氏族でした。永禄9年(1566年)に父、貴久の後を継いで島津家の第16代当主の座につくと、ほかの三人の弟たちと共に戦国の荒海へと乗り出します。元亀3年(1572年)5月に日向の伊東義祐が領内に攻め込んできたときには、木崎原の戦いで赫々たる大戦果をあげるなど目覚ましい活躍をみせます。

 

(解説)木崎原の戦いでは、島津三兄弟のうちの一人である島津義弘が大きな活躍を見せている。この時、守る島津は130程の寡兵である一方、伊東は約2,000ほどの軍勢であり、状況はあきらかに不利であった。それにも関わらず、彼は島津家お得意の「釣り野伏せ」戦法を駆使して、十倍近い数の伊東軍を撃退し、伊東氏没落の切っ掛けをつくった。この「釣り野伏せ」戦法は、決戦の地となる場所にあらかじめ伏兵を忍ばせておいて、囮となる部隊が前線の敵と戦い、負けて撤退するようなそぶりをみせて、敵を伏兵のある地点へとおびき寄せ、挟み撃ちにして勝利をおさめるという戦法である。島津はこの戦法をよく行い、この後で解説する「耳川の戦い」でもこの戦法で勝利をおさめている。

 

その後も、周辺へと勢力を伸ばした島津氏は、やがて伊東義祐を大隅から追放し、大隅の国衆を帰順させるなど順調に勢力を拡大させます。ところが、伊東義祐が大友宗麟を頼ると、豊後の大友宗麟が島津を討つため南下を開始します。ここに両者は対決へと至りました。

 

さて、ここからが本番。

 

天正6年(1578年)、大友宗麟とその子義統は、島津氏の伊東義祐を日向に復帰させる名目で、3万とも4万ともいわれる軍勢を率いて日向へと向かいます。大友軍は途中、肥後口と豊後口の二手に分かれ、一方はが肥後口を、そして大友親子自身は豊後口へと向かいます。


天正6年(1578年)2月21日、大友軍の先鋒は日向国門川城にはいり、豊後に退去していた伊東家家臣団も先鋒に加わります。伊東の家臣である長倉祐政と山田宗昌は耳川を越えて島津家の勢力圏にはいり、廃城となっていた石ノ城で挙兵、これに呼応するかのようにして、島津に下っていた伊東氏の旧臣、米良四郎右衛門(門川城主)、右松四郎左衛門(潮見城主)らが挙兵し、縣にいる土持氏を攻撃しました。土持親成は松尾城に籠城して抗戦するも、4月15日に落城、行縢への撤退中に捕らえられ斬殺されてしまいます。こうして大友軍は耳川以北の日向制圧に成功し、島津の勢力は耳川より南へとに後退します。


6月、島津義久は島津忠長に7000程の兵を引きさせて日向へと送り、7月8日に、伊東の旧臣が籠る石ノ城攻めを開始します。この時、石ノ城に立て籠もるのは、長倉祐政、山田宗昌ら600ほどでしたが、島津は返り討ちに合って敗退してしまいます。この時、島津は500名以上の死傷者を出し、副将格の川上範久が討ち取られます。そして、島津忠長自身も深い傷を負い、日向佐土原へと撤退します。


その頃、大友宗麟は、領内の神社仏閣を徹底的に破壊しながら進軍し、天正6年8月19日に無鹿に本陣を置きます。一説によると、宗麟はここ日向の地に、新しいキリスト教王国の建設を夢見ていたといいます。宗麟による日向国内の神社仏閣への破壊はすさまじく、大友家内部の家臣団の中には、こうした行動に眉を顰めるものもいました。こうした行為が、やがて大友家内部の不協和音を生じさせます。


一方、島津義久は日向の伊東家旧臣らへの攻略を開始します。島津征久らの諸将が8月に日向の上野城と隈城を攻撃し、9月には両城を攻略します。


上野城攻略から4日後、島津義久のもとに将軍足利義昭の使者がやってきて、大友討伐の御内書を受け取ります。これにより大友征伐の大義名分を得た義久は、さらなる北上を決意、島津征久らに1万の軍をもたせ、再び長倉祐政、山田宗昌らの籠る石ノ城を攻撃します。攻城戦は9月19日から開始され、29日には講和により城は落城しました。島津方は城兵の生命を保証し、長倉祐政、山田宗昌ら伊東の旧臣らは豊後へ退去します。

 

(補足)将軍足利義昭は織田信長により畿内を追われて、この頃は毛利氏の庇護のもと、鞆に幕府の拠点を置いていた。義昭は毛利に対してしばしば京への上洛を催促していたが、毛利はなかなか踏み切らずにいた。毛利は北九州を巡って大友氏と争っていたが、こうしたことが上洛の妨げとなっているとみた足利義昭は、大友の背後にいる島津を動かし、大友宗麟を牽制しようとしたのだった。

 

10月20日、耳川以北に布陣していた大友軍の先陣3万が南下をはじめ、高城を包囲します。

この時も大友宗麟自身は無鹿にあって動かず、佐伯宗天、田北鎮周、臼杵鑑速らが指揮をとりました。

 

 

(解説)石ノ城攻撃からひと月ほどの間、なぜ宗麟は動かなかったのだろうか?島津を侮る気持ちからだったのだろうか?それとも、無鹿にあって夢にまで見たキリスト教王国の建設に夢中だったためだろうか?どちらにせよ、この遅れは大友軍の敗北の原因のひとつともなった。もし石ノ城落城よりはやく駆けつけたならば、もっと有利な条件で戦えたはずだからだ。

 

こうして「高城の戦い」がはじまりました。高城城主の山田有信は、鹿児島に急報を知らせる使者を走らせると同時に、近くの佐渡原城にも使者を送ります。佐土原城主の島津家久は、さっそく高城に駆けつけ立て籠もりましたが、ほかに吉利下総、鎌田出雲守、比志島紀伊守など、高城周辺の島津方の諸将もはせ参じ、高城を守る守備兵は3000ほどに膨れ上がったといいます。

 

こうしてはじまった籠城戦。高城の本丸は東、南、北を高さ20メートル近い斜面に守られ、唯一地続きの西側の尾根にはV字型の空堀が七本もはりめぐらされた難攻不落の城であり、堅牢な守りに妨害されて大友軍は苦戦し、3度の突撃も防がれてしまいます。また、大友軍は「国崩し」と呼ばれる南蛮渡来の大砲も所持していましたが、どういった事情によるものか、あまり使われることはなかったようです。

 

天正6年10月24日、島津義久は高城包囲の急報を聞くと、薩摩、大隅から3万の軍勢を動員し、自ら軍勢を率いて鹿児島を出陣します。義久は途中、八幡社や霧島大社に参拝しながら進軍し、紙屋城、佐土原へと至りました。この頃になると、さらに兵があつまり軍勢は4万ほどに膨れ上がったといいます。

 

11月9日、島津義弘は島津征久、伊集院忠棟、上井覚兼らの諸将らとともに財部城に入り、軍議を開きます。そして、釣り野伏作戦が立てられます。まず、陽動部隊として逆瀬川奉膳兵衛らの率いる300程の軍勢が大友軍を挑発することが決まりました。これは囮部隊であり、適当に戦って負けたふりをして撤退する手はずとなっていました。

次に伏兵として、第一部隊と第二部隊とにそれぞれ500ほどの軍勢を持たせて茂みなどに潜ませました。そして、本隊は3000ほどの編制で、これも高城川北岸あたりに潜ませました。

 

天正6年11月11日正午頃、こうして準備を整えたうえで、島津の陽動部隊300が松原にいた大友軍を攻撃し、その荷駄を破壊します。突然の攻撃に慌てた大友軍は、高城を囲む本陣の軍勢を含めて陽動部隊への攻撃に向かいましたが、この動きを高城にいて見ていた島津家久は、本陣の軍勢を高城に引き寄せておくため城から討ってでます。伏兵の奇襲を受けた松原の大友軍に、本陣からの軍勢が援軍でかけつけるのを防ぐためでした。

 

陽動作戦は見事成功し、誘き出された松原の大友軍は、突然あらわれた島津の本隊及び、第一、第二伏兵部隊の奇襲を受けて壊滅します。島津軍は勢いにのって島原の陣を襲い、これも攻め落としてしまいます。勢いにのった島津軍の一部は、大友軍の本陣の間を突破して高城にはいり、財部の渡り場にいた島津義弘や島津征久らの軍勢も、川原の陣の前面へ向けて川を渡り、対岸の大友軍にむけて火矢を射かけるなど応戦します。

 

こうして、島津と大友との直接対決は、ひとまずは島津の勝利となりました。その後、敗れた大友は使者を送り、いったん和議が結ばれます。ところが、大友陣営は意見が統一されていませんでした。内部では和平派と徹底抗戦派とに分かれ、互いに激論を交わす状況となっていたのです。

 

(解説)大友陣営ではこの時、主戦派の田北鎮周と、和平派の大将田原親賢、佐伯宗天が激論を交わしていたが、その席上、田北鎮周が宗天を臆病者呼ばわりしたことで、冷静を失った宗天が挑発にのって主戦派となってしまう一幕があった。こうした様子を、見ていた島津方の逆瀬川豊前という武将がいた。彼は密かに大友陣営に忍び込み、この様子をうかがっていたのだった。そして、この様子を島津義久に伝えた。これが、次の大友との戦いでいきてくる。

 

大友陣営の様子を探っていた逆瀬川豊前からの報告で、主戦派と和平派とに分裂していること、また明日の早朝にも攻撃を仕掛けてくることを知った島津陣営は、再び釣り野伏の作戦を立てます。まず、それぞれ600と700と200からなる3つの部隊を伏兵として茂みなどに潜ませ、島津義久は1万ほどの本隊を従えて根白坂に布陣しました。

 

11月12日早朝、田北、佐伯の軍勢が小丸川北岸に陣取る島津軍前衛を攻撃します。大友軍本隊も、この動きに呼応せざるを得ず、ともに攻撃を開始します。圧倒的な兵力差と勢いに押され、島津軍前衛はあえなく崩壊してしまいます。これに勢いをえた大友軍は、高城川を渡り島津義久の本陣を目指してさらに進軍しました。島津義弘も本陣を前進させ、ここに大友軍と激突します。

 

と、その時でした。

 

島津征久はこの時とばかりに鷹羽の馬標を高々と掲げ、伏せていた兵らを起こしました。突然の奇襲に大友軍は動揺し、混乱状態に陥りました。この時、高城で戦況の行方を眺めていた島津家久も高城の城門を開き、大友勢の背後を襲います。前後左右を敵に囲まれた大友軍は混乱の極みに達し、なだれをうって大友本陣の方へと潰走します。勢いにのる島津はさらに追撃を続け、大友本陣、野久尾の陣、川原の陣などを焼き払い、大友の敗残兵を次々に討ち取っていきます。この敗戦をうけて、無鹿の大友宗麟は慌てて豊後へと撤退しました。こうして「耳川の戦い」島津の圧勝というこかたちで幕引きとなりました。

 

大友はこの合戦により、佐伯宗天、田北鎮周、蒲池鑑盛をはじめ多くの家臣や兵を失いました。のみならず、大友氏はこの敗北により衰退の坂を転げ落ちるようになります。まず、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、島津、龍造寺ら周辺諸大名も勢力を拡大させ、大友氏の勢力は縮小を余儀なくされます。その後、残る九州の雄であった龍造寺隆信が島津に敗れて亡くなると、勢いにのる島津によって追い詰められます。


窮地にたたされた大友宗麟は、当時、天下人として台頭する豊富秀吉に接近し、その助力にすがります。一方、「耳川の戦い」で大友に大勝した島津は、その後勢力を九州全土へと伸ばし、もう一方の雄である龍造寺隆信を「沖田畷の戦い」で葬ると、さらに大友氏を追い詰め、九州統一に王手をかけます。

 

ところが、天下人の豊富秀吉が、大友宗麟を助けるべく九州に上陸すると、瞬く間に九州全土を席巻し、ついには島津氏を薩摩と大隅に押し込めてしまうことになるのです。

 

以上、「耳川の戦い」についてご紹介しました。いかがだったでしょうか?現在、この動画を見れば「日本の歴史がわかる」をテーマに動画制作をすすめております(動画は現在制作中です)。よろしければチャンネル登録をお願いします。また、いいねを押して頂けると励みになります。それではまた。