新田義貞の生涯について① | 歴探見るラジオ放送局

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日本史を中心に歴史をテーマにしたYoutube動画を制作・運営しております。

こんにちは、歴探見るラジオ放送局です。

 

歴史をテーマにしたYoutube動画をはじめて、はやくも1年半が過ぎようとしている今日この頃です。ひとつの動画をつくるのにはやくて2週間、遅いときには4週間もかかってしまいます。自撮りしながらテーマに沿った話をするだけなら2、3時間もあれば1本の動画をつくれてしまいますが、わたしのチャンネルでは、しっかり下調べをして、後世を考え、案内人のそらにしゃべらせるセリフを考え、自動音声で録音しながら、地図を作成したり、場面を切り替えたりしながら、寝る間も惜しんで制作活動を続けているものの、収益化にはまったく手が届かず、(そんなに努力したにもかかわらず)時には再生回数20回なんていう動画まであったりと、もう踏んだり蹴ったりの状況です。というものの、いまはそれしか目標となるものがなく、期待を裏切られることをあえて承知で動画づくりに今日も励んでおります。今後も話のはじまりに、メイキングビデオならぬメイキングトークをいれていければと思います。どうぞ応援してください。

こちらに、チャンネルのURLを貼り付けておきます。

 

 

さて、次のテーマを何にしようかと考えておりますが、先日購入した「歴史人」とかいう雑誌を見ていて、ふと新田義貞の記事が目に留まりました。そして、これをベースにストーリーを組み立てられないかと考えました。

 

 

実は以前、太平記の世界をテーマに動画を作成したことがあって、この動画が、いつも低調な私の動画の、全体の平均再生回数と比べて比較的高かったこともあって、もういちど取り上げようと思った次第です。その時の動画がこれです。

 

 

新田義貞は鎌倉時代後期のひとで、後醍醐天皇の討幕の呼びかけに応じて立ち上がった人物のひとりであります。この時、討幕に立ち上がった面々としては、足利尊氏、楠木正成、護良親王などがいて、そのどれもが個性的でエネルギッシュで魅力にあふれた人物なのですが、とりわけ新田義貞については、足利尊氏との対比で描くと面白いだろうなあと思うのです。それに、動画の筋書きを考えるのに、いろいろ調べ物をして書いていくわけですが、ブログとして記憶やその時々の気持ちを整理していくのも動画作成に役立つだろうと思うのです。

 

それで、まずは手始めとして、新田義貞の生い立ちから話始めたいと思います。

 

(以下、「です・ます」調から「だ・である」調に変えて続けます)

 

新田義貞の生い立ち、足利尊氏と同じ、名門・河内源氏の出自として

 

さて、新田義貞は新田氏本宗家の7代目当主、新田朝氏の嫡男として生まれた。生まれた年は正安3年(1301年)前後と考えられている。新田氏は清和源氏のうちの河内源氏の流れをくむ名門であったものの、ライバルの足利尊氏の足利家とくらべて、財力や官位や家格においてはるかに劣った家柄として扱われていたらしい。一説によれば、新田家は足利家の庶家としての位置づけだったともいわれているが定かではない。

 

ここで、清和源氏や河内源氏についてもう少し掘り下げてみたいと思う。なぜならば、この時代、血統や家柄といったものの価値が、現代人の想像する以上の重要なものとみなされていたからだ。

ここで登場する河内源氏というのは、河内国に拠点を置いた清和源氏の一派で、源頼信を祖とする一族のことだ。そもそも「源」姓というのは、皇族であったものが臣籍降下のおりに賜る姓を起源としている。なので、嵯峨天皇から臣下に降ったものは嵯峨源氏となるし、村上天皇から降ったものは村上源氏となる。その多くは地方に土着して武士となったり、中には公卿として残るものもあった。

 

河内源氏の祖となる清和源氏というのも、清和天皇の皇子が臣籍降下してはじまった家であるが、この系統から河内源氏があらわれて、源氏の本命となっていく。その河内源氏であるが、日本史において数多くの武勲を残している。例えば、河内源氏の祖である源頼信は「平忠常の乱」を、源頼義義家が前九年の役を、そして義家が後三年の役を平定している。

その後におきた保元・平治の乱では、伊勢平氏に敗れて没落するも、同じ系統から源頼朝が現れて、鎌倉幕府の創建へといたるのだった。ところが、源頼朝の系統は、陰謀渦巻く鎌倉にあって、謀殺されるなどしてわずか三代で途絶えてしまう。

さて、頼朝の系統がなくなったあとも、源氏は鎌倉幕府のなかで名門でありつづけた。とくに足利家というのは、さきほど紹介した八幡太郎義家、つまり、後三年合戦を平定した源義家の流れを組んでいて、いわば、頼朝の高祖父と同じ流れを組んでいる。鎌倉幕府自体は、平氏の流れをくむ北条得宗家が天皇家から招いた傀儡の宮将軍を擁立しつつ実質的に幕府を支配しつづけるものの、その陰にあって、隠然とした影響力を持ち続けたのが足利家であったといえる。北条家からすると、目の上のたん瘤であったものの、無碍に扱うこともできず、足利家とは婚姻関係を結ぶなどして、たくみに政権内部に取り込んでいくのだが、それも北条家の体制が盤石であればこそであり、元弘の乱を切っ掛けとして倒幕運動が盛り上がるようになると、たちまち御家人らの求心力となって、急浮上していくことになる。

 

ところで、同じ八幡太郎義家の流れを組む家がもう一つあった。それが新田氏だった。本来ならば足利氏と並んで源氏の名門として幕府内で優遇されるはずだったが、そうはならなかった。これは、鎌倉幕府創設の折に、頼朝の参陣要請になかなか応じなかったことで頼朝の勘気を被るなど、頼朝とのあいだに確執があったからとされている。

新田義貞の胸中はいかばかりか。源氏の名門として生まれながら、鎌倉の一御家人でしかなかった自分。源氏の棟梁としてもてはやされ、時代の主役に躍り出た足利尊氏と、立場の弱さから求心力たりえなかった自分。そんなルサンチマンが新田義貞を生んだのだと思うと、これも歴史のロマンなのかなと思う。

 

ご愛読ありがとうございました。

続きは次回、よろしくお願いします。